edoissinn.jpg明暦3(1657) 1月の明暦の大火、振袖火災――。徳川家光が1651年に没し、牢人が溢れて政情不安のなか、由井正雪の乱(慶安の変)が起きる。そして明暦3年、118日から20日にかけて、2度にわたる火災によって江戸市内の大半は灰燼と帰す。第4代将軍家綱の下、老中は武蔵国川越城主・松平伊豆守信綱、阿部忠秋56歳、34歳とまだ若い酒井忠清の3人。62歳の信綱は知恵伊豆と言われ、頭脳の鋭敏さ、些事を捉えて大事を伺う想像力、説得力は抜きん出ていた。

復興に乗り出すが、米や材木が高騰する。牢人も騒ぐ。大老・保科正之によって天守は再建せず、本丸御殿のみ再建することが決まる。信綱は、何かと横ヤリを入れる吹上にある紀伊、尾張、水戸の御三家の屋敷を郊外へ移転させること、吉原を移転させること、他の大名や旗本、御家人も郊外に移転させることなどを次々に決め、江戸そのものの一新、大規模区画整理事業に乗り出す。それはまた、牢人たちに仕事、食い扶持を与え、喧嘩や強盗、詐欺や恐喝の頻発する江戸の治安を回復することでもあった。隅田川に橋をかけることによって、東岸地域の向島、本所、深川などは一気に江戸となり、西の地域も大きく広がった。それら具体的展開には、花川戸の長兵衛を「斥候」として使ったりもした。

表の顔は決して「豪胆」ではなかったという。「姉の声がまた頭蓋の内部に満ちた。『臆病者はそれゆえに、たくさんものを考える。あらかじめ精一杯思索する。長四郎、そなたは日本一の臆病者になりなされ』」・・・・・・。家光の小姓から立身出世した老中・松平伊豆守信綱の切れ者ぶりを描く。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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