キリスト教が禁じられ、島原の乱に至った江戸時代――。最後の日本人司祭となった小西マンショの生涯を通じて、キリシタンへの迫害の凄惨な歴史が語られる。パシヨンとは受難。"受難の時代"を生き抜こうとする者の懊悩と魂の叫び、加えて弾圧をする幕府の総目付・キリシタン奉行の井上政重の心象が対比的に描かれ、緊迫の度が増す。ニ人はついに運命的な直接対峙の時を迎えるのだった。
小西彦七(後のマンショ)はキリシタン大名・小西行長の孫で、対馬藩主・ 宗義智の子として生まれるが、関ヶ原の戦いで小西行長が西軍について斬首、母・マリヤは離縁される。長崎へ移り、小西家の遺臣・益田源介らの世話になりながら成長していく。江戸幕府が禁教令を強化し、キリシタンへの弾圧は強化され、それへの抵抗と小西家再興が画策されていく。逡巡する彦七は、司祭となるため、日本を出る決断をする。
そうしたなか、時代はますますキリシタン弾圧へと進み、40万にもなっていたキリシタンは、棄教か殉教かに追い込まれていく。そして島原の乱へと進んでいく。
一方、弾圧政策を強化していく幕府。少禄の幕臣から大目付に出世した井上政重は、幕府統治による太平の世を目指し、世を乱す不穏な動きをひたすら制止しようとする。政重は、なし崩しで禁制を指揮するようになり、厳しい拷問や火刑や斬首が相次ぎ、たちまち畏怖と嫌悪の対象となっていく。あたかも、ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン」を想起させるが、彼の場合、心の中に潜む世への憤怒と空虚・孤独は深まっていく。
島原の乱に帰国が間に合った小西マンショ。餓死寸前の原城のキリシタン戦士に司祭となったマンショは叫ぶ。「逃げよ」「教えを棄てよ」「放免されて落ち着いたら棄てた教えを取り戻せばいい」・・・・・・。そして数年後、江戸時代最後の日本人司祭・小西マンショは捕われ、拷問のなか井上と対峙するのだが・・・・・・。
「生きる」ことと「自由」。「魂の自由」と「宗教」。弾圧する幕府の側の井上政重を出すことによって、本書は「受難の時代」を生きる魂の叫びを剔抉してみせた力作となっている。