rauri.jpg1977年に生まれた4人の少年少女はどう生きたか。舞台は、バルト三国の中で最も北側のエストニア。ソビエトの中にあり、生活は厳しかったが、ゴルバチョフのペレストロイカ、エリツィンの台頭、ソ連崩壊、エストニア独立。エストニア独立は1991年、ラウリ達が14歳の時だ。国家とは、民族とは。国家そのものの激震のなか少年少女はどう生きたのか。それを実に清々しいほどの透明感に満ちて淡々と、夢と挫折と友情を描く感動作。しかも今の世界に先駆けたデジタル国家への変貌を絡めた立体感ある作品だ。

ラウリ・クースク――父が持ち込んだ電子計算機に興味を持ち、6歳にしてプログラムを完成させ、ロシア語を学んでやがて、ロシアの大学に行く希望をもっている。父はシベリアに送られたことがありロシアが大嫌い。

イヴァン――レニングラード出身で中学からのラウリの同級生、プログラミングの天才。カーテャ――中学からラウリの同級生の女性でパルチザンの孫娘。この3人がとても親しく友情を持ち互いにプログラミングを競う。そしてアーロンという小学校からの同級生でラウリをいじめる奴が交差する。さぁ、国家の激動にさらされた3人はどうなったか。そして、アーロンは。違う国になったイヴァンは

1919年、ベルリンの壁崩壊。嬉しくないのかとカーテャに問われ、憂鬱を感じているラウリは答える。「国をまたいでイヴァンに出会えたのはソビエトがあるおかげだし、情報科学を学べるのもそう。将来はモスクワへ行きたいし、体制が崩れるかもしれないっていう想像は、僕には怖いよ」「(おじさんがぽそりと言う)俺たちの国から出て行け」「寮への帰り道、カーテャがラウリの手を握った。反対の手をイヴァンが握った」。しかし、ソビエトの政変、エストニアの独立運動は3人を切り裂いていく。そしてソ連の「黒ベレー」がエストニアにも侵入しようとする動きになる(1991112日、リトアニアの「血の日曜日」事件)3人は引き裂かれバラバラの動きになってしまう。

数年後、プログラミングの道から離れたラウリのもとに、少年の頃に接したライライ(タルトゥ大学教授)が会いに来る。「この国はまだまだだけれど、近い将来、情報通信技術の国に生まれ変わる。でも現状では人材が足りない。あなたみたいに、呼吸するようにプログラムをかける人を私たちは必要としている」と、学校でのインターネット環境整備やマイナンバーカードやインターネット投票の実現を目指すと言い、さらに「国とは領土ではなくデータであると考える。占領されても国と国民のデータは維持できる。わたしたちは情報空間に不死をつくる」と誘うのだった。

「わたしたちは独立回復にあたり、それぞれにアイデンティティーを選び直した。ラトヴィアはバルトというアイデンティティーにこだわりました。リトアニアは、北欧、バルト、中東欧をつなぐ、文明の十字路のような役割。わたしたちエストニア人は、フィンランドに近いこともあってか、北欧の一員としてのアイデンティティーを選択しました」「エストニアは、占領時代から職人たちが質の高いデザインを生み出して、"ソビエトのなかのヨーロッパ"と称されてきました」。国の崩壊、国家の独立、民族としてのアイデンティティーと誇りが相乱れるなか、「裏切り者」「出て行け」の怨讐のなか、3人の絆を温かく優しく描き切る。そしてサイバー攻撃やコンピューター犯罪、ブロックチェーン、暗号資産、ロシアのウクライナ侵攻など今日的課題についても描いている。

親友と会う。理由はいらない。「話題なんかなくたっていい。2人で空でも見てればいいのさ」「この国で、光のある道を生きろとは言えない。だから、せめて、お前さんはまっすぐ、したたかに生きてくれよ。まっすぐ、したたかに」・・・・・・。国家の嵐の中でも、上品で情のしみ通った作品。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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