souzouseiha.jpgAIは人間の知恵や想像力、創造力には及ばない」ということが書かれていると普通なら思うが、本書は全く次元を異にする。生命科学、哲学、文学から芸術の創造性を論じる根源的、実践的かつ挑戦的な書となっている。「天然表現の世界」が副題で、「想像もつかない世界の『外部』を召喚するための方法」「ふと何かが降りてくる」ことを示すゆえに、表題が「創造性はどこからやってくるか」となっている。そういうことが難解な文章をくぐり抜けて、やっとおぼろげながら見えてくる。

「わたしが考えてきた生命のモデル、それが『天然知能』であり、それを作品として実装する過程、もしくは出来上がる作品が『天然表現』である」「芸術にたずさわる多くのアーティストは、自己表現という意味での表現を否定する。『わたし』の中なんて空っぽで何もない。わたしの中ではなく、むしろ外から来る何か、インスピレーション(霊感)を受け取るのだ。ここでいう天然表現は、この感覚を拡張することで構想される。そして、自然現象や、人間の意識、心の形成まで、天然表現として展開していくものなのである」と言う。「外部とは、内側と外側の成す全体からは窺い知れない、その全体の外に位置づけられるものである。窺い知れない外部、知覚不可能だが、存在する外部」「外部を感じることこそ創造だ。創造とは外部に接続し、外部を召喚する行為である」「外部を感じるのは、創造行為、死を感じること、トラウマからの癒しだ」と言う。

関根伸夫の「位相―大地」、ロバート・スミッソンの「スパイラル・ジェティ」のランドアートが示される。本書に触れる前とは全く違って興味が湧く。「プラトニズムは結局のところ、意識に依存し、人間の認識に依存してしまう。これを超えて存在そのものに迫ろうとすることがハイデガーの目的だった」「結局、『もの自体』『山それ自体』ヘ至るため、その脱色、無化を経由した外部の召喚が必要となる。つまり、『完全な不完全体』が鍵となる」「科学は『完全体』として、その都度、理論やモデルを提出するが、芸術は『完全な不完全体』を作品として掲げるものではないか」「何かをうまく説明するように語り、いわゆる意識高い系の人ほど、流行に振り回されるだけで、創造的なことは何もできない。むしろ目に見える情報で自分を満たすことをせず、空っぽの器のように見える人間こそ、目に見えない『何か』に対する感度が研ぎ澄まされ、空っぽの器に、見えない『外部』を受け止めることができる。創造的であるとは、そういうことではないのか」と述べ、日本画家・中村恭子の「書き割り少女」を紹介する。更に、著者自身の「人であり虫であるものが、人でも虫でもないものの痕跡を作る」というテーマで出発した制作を紹介する。

そして、「我々は、創造の当事者になることによってのみ、生を感じることができる。『はじまりのアート』のきっかけはどこにでも転がっている。しかし、それを実現するために、我々は賭けるしかないのである」と言う。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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