人間国宝の五代目柳家小さんを師匠とし、笑いを巻き起こす落とし噺、人情噺の名手として知られる一方、新作落語にも力を入れる柳家さん喬師匠。「人様を笑わせ、幸せな心持ちになっていただく。これ以上ない、いい仕事じゃありませんか」と言う。「笑い」を「言葉」だけで「仕事」とすること――それがいかに修練の上に出来上がるものであるか。興味深い。
師匠は絶対だ。「落語ではなく剣道の稽古で教わった『間』」「演者とお客様は互角でなきゃいけない。相手が初段なら、自分も初段のつもりで向き合え。上から目線でなく、『これから噺をさせていただきます』という謙虚な気持ちでなくてはいけない。師匠は剣道の礼儀を教えることを通じて、弟子に落語の基本、精神を教えてくれていたように思う」「素直が一番、客に媚びるな、とよく言われた。どうせわからないだろうからと客に合わせていくことが"媚びる"こと。周りの"範"にならなきゃだめだ」「芸を磨くより人を磨け、これが師匠の座右の銘であり、弟子へのメッセージだった」・・・・・・。
「成長に必要なのは、縦のラインと横のライン」「『三平は落語ではない』なんて、とんでもない」「テレビで有名になった芸人さん達がいてくれたおかげで、寄席の伝統も続いてきたと思う」「人情噺は滑稽噺が基本にあるからこそ成り立つものだ。滑稽噺が面白くなくては人情噺も面白くない」「どこかにフッとした笑を入れなきゃいけない。緊張して聴いていた客が、そこでホッとして気を楽にして、噺の世界に入ることができると思う」「大事なのはお客様と世界を共有すること。江戸の風景の中にいるとか、噺の景色が見えました、が大事」・・・・・・。
「笑いを変える」――新作落語等への挑戦。「コメディにはドタバタ劇もあるが、ニール・サイモンの作品のように笑いの中にペーソス、ちょっともの悲しかったり切なかったり、そんな人間の機微が込められた作品も多い。そこは落語に似ている」「黒田恵美子先生に書いていただいた落語が『干しガキの恋』と『くわばら』という新作落語」。本書で紹介されているこの「干しガキ」は、寝てばかりで働かない八五郎がヘチマを売りに行き、少々難ありの「干しガキ」を買うところが始まるが、面白くて味わい深い。落語の特徴の一つは、演出家がいないこと。演出も脚本も主演もエキストラも、犬も猫も音楽も全部自分でやらなければならないこと、台詞で表現すること。(なるほど、落語のセリフはセルフか)。しかし、「説明過剰で失われる光景」で、「過剰な説明、過剰な演技、クサい演技は逆に、お客様それぞれが見られたはずの景色を、逆に限定して、想像する余地を奪ってしまうことになる」と言う。我々の演説でも全く同じ。解説で、黒田先生が「落語とは、モノローグの部分が多いものと捉え、冒頭から3ページほど、諸国乾物商い処のある町の風景や木枯らし舞う季節の情景描写に費やしていた。しかしさん喬師匠によると、『この部分はね、(腕組みをして)「おお、寒い!」、これで済んじゃうんですよ』」と言っている。究極の名人芸であると納得する。
本書の中で、さん喬落語として「天狗裁き(八五郎の夢を聞き出そうとする人たち)」「文七元結(博打で借金だらけの長兵衛が、五十両を借り受け帰る途中に・・・・・・)」「干しガキ」が出てくる。文章でもとても面白いが、実際に演じてみれば、素晴らしいものになるだろうとワクワクする。