「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」――歌のみならず、その人間的な魅力が多くの人を引きつけてきた西行。藤原定家などと共に、新古今時代を代表する歌人、「新古今和歌集」では、藤原俊成、藤原定家などを上回る最多の94首が選入されている西行。桜の美しさを多くの人に伝え、「人生無常」の自覚を促し、それを乗り越える「道」があることを力強く示した西行。仏教と神道が共存する思想を推進した西行――。西行一筋60年、西行歌集研究の第一人者がその本質的姿を開示した素晴らしい著作。全国に散在する数百本ある西行歌集の写本や版木をほとんど全て閲覧・調査、約30年の歳月をかけて校本を作成仕上げた著者が、「西行を愛好する一般の方々に読んでいただけるものを」と執筆したのが本書だ。最善本とされている京都の陽明文庫に所蔵されている「山家集」の写本も、「陽明本の本文が誤っていると見なされる例は、全部で約200か所余りあることが明らかになった」と述べている。まさに西行研究の第一人者が、「184首の名歌」に現代語訳をつけ、「西行の魅力の全て」を語る著作。
「出家の背景」――待賢門院璋子(鳥羽天皇の妃、崇徳天皇と後白河天皇の生母)との悲恋、潔癖説や風流の道に心を寄せる数寄説等があるが、「ただ一つの理由によってというより、いくつもの理由が重なって実行された」という。
「西行と桜」――「西行においては、桜の花はほとんど恋人にも等しい存在であった」「ひたすら美を憧憬し、遥か遠くに思いを馳せる、いわば浪漫的精神とでも呼んでよいもの」「生涯を貫く西行の重要な性格の一部をなしている」・・・・・・。「西行と旅」――2度にわたる奥州行脚、西国・四国への旅、高野と都と吉野の往来、熊野、伊勢、難波への旅・・・・・・。「僧侶としては『修行』の旅。日常性の絆を離れ、常に旅の状態に身を置くことで、精神の自由を確保しようとしたのであろう」と言う。「四国の旅」――敬慕する崇徳院の御陵に参拝することと、弘法大師の遺跡をめぐることが目的。「崇徳院の悲劇は、白河法皇と鳥羽院の確執に源があった」。「雨月物語」でも西行と崇徳院の崇徳院の霊の邂逅が出てくる。
「平家と西行」――西行と平清盛は元永元年(1118)の同じ年生まれで、それぞれ北面の武士として旧知だった。「鴫立つ沢」――中世を生きる人間の孤独な魂を飛び立つ鴫姿に見て歌ったこの一首は、人々に深い共感を与えた。「神道と西行」――治承4年(1180)に、長年活動の拠点としてきた高野山を去り伊勢に移住、118 6年に2度目の奥州行脚に出発するまで伊勢で足掛け7年過ごす。天台宗、真言宗(高野山を中心にして30年余りを過ごす)を学ぶが、この時代には浄土教が急速に浸透していた。伊勢だけでなく、西行の日本古来の神に対する信仰は極めて篤いものがあった。
「円熟」――文治2年(1186)の秋、69歳の西行は奥州に向かい、藤原秀衡に焼失した東大寺大仏殿を再建するための砂金を勧進に行く。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」と、現在の掛川市の坂道を通るときの感慨を詠んだという。また、この後の頼朝とのやりとりは面白い。「西行と定家」――「人生派、抒情派としての西行と構成派、唯美派の定家」として、対立的に捉えられることもある。小林秀雄が「無常といふ事」で、定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」を酷評して、対立的に捉えている。しかし著者はこの歌の「墨絵のような情景に定家は深い感動を覚えたのである。いわば無の中に美を見出す日本独特の審美眼」と言う。そして「総じて定家は、西行の歌に対し、父俊成に次ぐ高い評価を下している。西行の歌を最高に評価している。深い理解と敬意がにじみ出ている」と言っている。しかも具体的に、西行の歌をあげながら述べている。極めて興味深い。
「西行から芭蕉へ」――芭蕉は心底から西行に傾倒していた。「奥の細道」の旅にも西行の歌の影響は色濃く投影している、と言う。
文化史の巨人・西行」――「人生無常の思いは、西行の歌に流れる通奏低音である」。末法の世に入り、人々の心の中には無常感が強くなっていた。その無常のなかに、それを乗り越える人間の完成への「道」を目指す。諦観の中に自由を得る。宇宙と自然の中で「諸法実相」の境地を得る。西行の生き方と哲学の魅力が改めて伝わってくる。「願はくは・・・・・・」の通り、「如月」で、今でいうと3月末の桜の咲く頃に西行は死を遂げる。