odajima.jpg天才コラムニストによる深遠なる文章術、コラム論。「コラムは、道であって、到達点ではない」「だから、コラムを制作する者は、方法でなく、態度を身に付けなければならない」「コラムは、常に挑戦であるはずのものだ。『慣れ』や『手順』から生まれる文章は、コラムとは別の規格品に過ぎない」――。「道」は進む過程、日常の生き方・態度だ。また「いずれにしても、コラムは発見ではない。むしろ、発見のために用いる顕微鏡や望遠鏡に近い。視点の限定。拡大。あるいは目眩それ自体」とも言う。文章を書く、特にコラムを書くという構造分析・思考の幅と深さに感嘆した。かつ読んでいて、5分程度の短いスピーチも多い自分自身に重なる思いもあり、極めて面白く、共感した。

コラムとは、「画家がキャンバスの中に風景を封じ込めるごとく、特定の枠組みの中で、言葉の小宇宙を形成する作業」と言う。「会話と文章の能力は違う。会話の魅力的要素は、ボキャブラリーの華麗さや反応の速さといった瞬発的な能力、人格的な魅力や美貌や声そのものの豊かさによる。文章はひらめきや想像力よりは『根気』や『忍耐力』みたいな、地味な能力による(石積み作業)」「技巧もアイディアも枯渇しない。書き手にとって唯一の有効な才能は『モチベーション』だ」「書き出しはそれほど重要な要素ではない」・・・・・・。

「文章を書く人間は、書き手の頭を備えていると同時に『読み手』の眼を持っていなければならない。『自分の文章を他人の眼で読んで批評する能力』だ」「結末、結語、落ち、余韻、着地について」「コラムにメモはいらない?」「文体の問題は、半ば以上は主語の問題である」「主語を定める事は簡単な作業ではない。理由はなにより日本語がそもそも主語と相性の悪い言語だからだ。英語のように主語を明示すると、文章が主語だらけになり、文体は驚くほど押し付けがましくなる」・・・・・・。

「推敲について」――。「文章を書く人間には、『創造性』と『批評性』が必要で不可欠。創造性だけで書かれた原稿は独創的ではあるかもしれないが、独善的に見えるし人々に理解されない。といって批評性の名において全面的にカドをとられた文章からは、独自性が姿を消してしまう。常識的で、平板で、保守的で、当たり前な、わかりやすくはあっても、少しも面白くない没個性な文章では、コラムにならない」・・・・・・。

「裏を見る眼」――。「世界には、二通りの人間がいる。(同じ景色の中に)妖精を見る人間と見ない人間だ」「司馬遼太郎の見解によれば、妖精を見る眼は、輪郭の裏側を見る能力に依っている。普通の人間は、木々の形や11枚の葉っぱを見るが、ある種の人々は木の枝の輪郭によって区切られた青空の形に注目している。枝と枝の間の形を見る能力。ひとつの形を多様な見方で捉え直す『眼』の力が不可欠だ。複眼的な視点だ」「小田嶋さんは説明の名手だ。説明がうまい人というのは、物事を見るときの『焦点距離』を自在に操れる人、接近と後退を繰り返すその運動が見事です(内田樹)」「接続詞はいらない。それをやると台なしになる。アイディアから、アイディアにポンと跳ぶところが面白いのに(内田樹)」・・・・・・。内田樹との対談で、小田嶋さんは「落語を聞いても、『ところで』とか『さて』とか何もなく、いきなり話に入る」と応じている。スピーチでも落語でも演説もリズムが不可欠。小田嶋隆の「コラム道」は、とても刺激的で面白い。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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