「よく歩き、よく考える」が副題。「昔から思索家はよく歩く。哲学者然り、詩人然り、小説家然り、作曲家然り・・・・・・よく歩く者はよく考える。よく考える者は自由だ。自由は知性の権利だ」と言う。帯に「文学、思想、人類史、自然学、考現学、地理学・・・・・・散歩をしながら、様々な思考が頭の中を駆け巡る」とあるが、本書はまさにその通りで、中身の濃密さに驚き、感心する。
確かに人類史は歩行の歴史だ。直立二足歩行の開始以来、人類は歩き、自然と対話した。この自然との対話こそが、最も古い宗教の形態となる。ルソーもカントも歩いて哲学した。京都には、「哲学の道」があって、私も歩いたが、確かに心が落ち着いたものだ。
「散歩する文学者たち」――萩原朔太郎「秋と漫歩」も芥川龍之介の「歯車」も、永井荷風「濹東綺譚」もつぶさに歩きながらよく見ている。原東京というべき「武蔵野」について、国木田独歩や大岡昇平だけでなく、昭和天皇にも触れている。話が縦横に飛び、極めて面白い。散歩で得られる情報はまさに膨大。「人はそれほどに散歩中に多くのことを思い巡らせているのである」と言っている。ニューヨークもヴェネチアにもよく訪れており、都市の匂いがこちらにも伝わってくる。なるほど、自分は忙しく仕事ばかりして見るものを見ないでもったいないことをしたと思う。
「都心を歩く」――私の地元の十条銀座や東十条、「埼玉屋」の大将とのやりとりまで出てきて嬉しくなる。池袋、高田馬場・ ミャンマータウン、阿佐ヶ谷・・・・・・。「郊外を歩く」――登戸(川崎市)ゴールデン街では「昭和の騒々しさ、猥雑さは当時の街に充満していた雑多なニオイの記憶と分かち難く結びついている」と言う。町田で老舗の馬肉料理店「柿島屋」、西荻窪の台湾料理店「珍味亭」に行く。「角打ち散歩」として、新橋と神田をはしごする。「田舎を歩く」として、屋久島に縄文杉に会いに行く。秋田にも行き思いを巡らせる。
「散歩に出れば・・・・・・生の現実、生身の他者からしか得られない、はるかに多くの情報にまみれることになる」「心にゆとりがないと、ヒトは気宇壮大なことは考えられないし、未来を設計したりもできない」「いっそ、人の手を煩わさなくてもいい仕事を全て生成AIに押し付けて、空いた時間に散歩にかまけるのが最も賢い選択となるのではないか」と言うのだ。散歩は最高の贅沢かもしれない。