月の満ち欠け 佐藤正午著.jpg「万が一、自分が命を落とすようなことがあったら、もういちど生まれ変わる。月のように。いちど欠けた月がもういちど満ちるように。そしてあなたにサインを送る。そのサインに気づいたら、生まれ変わりを受け入れてほしいと彼女は言いました」――。三角哲彦(アキヒコ)をめぐっての愛の美しさと深さと強さが時間を追って繰り返される。正木瑠璃との恋愛、その生まれ変わりの小山内の娘・瑠璃、緑坂ゆいの娘・るり、そして小沼希美(本当は瑠璃)。正木瑠璃が死んだ年に小山内瑠璃が生まれ、小山内瑠璃が死んだ年に希美が生まれ・・・・・・。

「瑠璃も玻璃も照らせば光る」と「前世を記憶する子どもたち」(生まれ変わりを思わせる事例についての著作)――この2つが繰り返され主旋律を奏でる。三角とそれぞれの瑠璃の愛の深さが時空を越える。とまどう周りの人々。しかし、こうしたことはあるとしみじみ思う。生命の輪廻転生、人の邂逅、縁とか天を感ずる世界。不思議としか思えない縁の深まる実感、生老病死の因果・・・・・・。その縁とか天という世界を感じられるかどうか。それが「生老病死の気づきの哲学」であり、人生の深さだ。そうした世界を悠久なる宇宙の美しくも厳しい「月の満ち欠け」として描く卓越した小説。


誰もボクを見ていない.jpg2014年、埼玉県川口市で起きた70代の老夫婦殺害事件。逮捕されたのは孫の17歳の少年で、「金目当てだった」と供述した。閉鎖された母子の異常な生活空間のなかで「殺してでも金を借りてこい」との母親からの執拗な脅迫が明らかとなった。幼少期に両親が離婚、小学5年から長期にわたって学校にも通わず、ホテル暮らしや野宿生活を強いられて転々。極度の貧困、ネグレクト(育児放棄)、虐待(身体的・心理的・性的)、過酷な生育環境が少年を押し潰す。行政が居場所を把握できない「居所不明児童」だった。

「なぜ事件が起こったのか」「誰か、途中で救いの手を差し延べ、止められなかったのか」「頻発する衝撃的な少年犯罪、彼らを救い出す方策はないのか」――記者が丹念に取材した。重く、苦しいが、少年の手記には「一歩踏み込んで何かをすることはとても勇気が必要だと思います。・・・・・・やはりその一歩は重いものです」とある。「子供に関心をもつ」「あっと何か思った時に一歩踏み込む」。山寺さんは「どんなに同情したり心を痛めたりしても、行動を伴わない『善意』には現実を変える力はなかったのだ」という。「面倒なことに関わりたくない」「善意を行動で示すのが苦手の国民性」「原因を公的機関の対応に帰結させて批判だけしがちな社会」のなかで、「行動に移す努力」を考えさせられる。


「司馬遼太郎」で学ぶ日本史.jpg「竜馬がゆく」「翔ぶが如く」「坂の上の雲」の三大長編。「国盗り物語」や磯田さんが最高傑作という「花神」。さらに『「明治」という国家』『「昭和」という国家』「この国のかたち」・・・・・・。「司馬史観」と「司馬人間学」。「戦国時代は何を生み出したのか」「幕末という大転換点」「明治の理想はいかに実ったか」の章を経て、司馬遼太郎が「異常な時代、鬼胎の時代と呼んだ昭和前期」を通じて日本の歴史と日本人の精神と国家の成功と失敗を俯瞰する。

「信長、秀吉、家康の三英傑をどう見るか」「革命の三段階(新しい価値の創出者・予言者としての吉田松陰が現れ、次に高杉晋作のような実行家・革命家が現れ、最後にその果実を受け取る山県有朋のような権力者が生まれる。そして革命は腐敗が始まる)」「信長の合理主義をさらに発展させたような大村益次郎」「合理主義者が革命的勝利を収め、その合理性やリアリズムを失った時に組織はダメになる」「明治は、リアリズムの時代でした。それも透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした(「明治」という国家)」「福沢諭吉の言葉に『一身独立して一国独立す』というものがありますが、自分がきちっと自らの商売や役割を果たすことで、『一国独立』、つまり国はきちっと回っていく」「明治の日本には弱者の自覚、ある種の謙虚さが残っていた」・・・・・・。

明治人が苦労してつくり上げた国家は日露戦争後から暴走を開始し、昭和前期を経て敗戦に至る。「国家と人間」の歴史、「おごり」とは何か、を考える。


モネのあしあと  原田マハ著.jpg19世紀後半、絵画の世界は大きく変わり、「印象派」が躍り出る。その真ん中にクロード・モネ(1840~1926)があり、1873年作の「印象―日の出」がある。「印象のまま描いた落書き」と酷評されたが、その名の「印象」は「印象派」の由来となり、大きな流れを形成していく。モネ、セザンヌ、ルノアール・・・・・・そして20世紀絵画の潮流を形づくる。

印象派誕生以前のフランス画壇、従来からの保守的なアカデミーの権威は絶対であった。そこにアトリエの人工的な光と、つくりものめいたモデルのポーズに飽き飽きし、現実の世界を描こうとしたモネらの反逆児がアカデミーの呪縛を破って登場した。その背景には、産業革命があり、交通網の整備、オスマンのパリ大改造の都市計画、人の自由な往来があり、水と緑の憩いの空間づくり、セーヌ川の美しさ、パリのカフェテラスがあり、さらには写実を根本から揺るがす写真の登場もあった。時代が新しい舞台をつくったわけだが、日本の浮世絵もパリ万国博覧会を通じて大人気を博し、影響を与えた。

日本人は印象派になぜ魅かれるのか。それは時代の新しさに呼応しようとした意識自体の新しさ、息吹きとともに、日本人のもつ自然観(草や花、自然の中に神や命が宿る)があるのではないか。風景への没入観、世界と自然との一体感があるのではないかという。


自由のこれから  平野啓一郎著  ベスト新書.jpg人間の自由意志とは・・・・・・。難しくなっている「これからの時代の自由論」を「分人主義」で議論を整理し、解いていく。このあふれる情報社会、IT・IoT・AI・BTの社会――。自動運転、ドローン、ビッグデータ、レコメンド機能、シェアリングエコノミーなど身の辺りではテクノロジーのとてつもない急激な変化が眼前にある。「自由意志」「自由選択」と思いがちだが、管理され、操作されている。モノを買うこと一つをとっても、あふれるメディア等によって思考ということについても・・・・・・。はたして「自由のこれから」はどう考えたらいいのか。

「社会の監視化が進む中で、社会が多様性に理解を深め、寛容性を養うことが大切」「印刷本から電子本、車の自動運転化(道路のあり方も)等、キーワードは"混在"する未来だ」「アーキテクチャが生活を自動化していくが、刻々と自由を奪われていくが、心地のいい奪われ方として利用され、自由は一定方向に制限されていく」「ロボット兵器、虫に偽装したドローンなど不安の増大とともに、民間が監視カメラや防犯カメラを積極的に設置したいという"みんなが監視を望む社会"という構図の逆転が起きている」「専門家の権威が尊重されなくなり、バラバラの個人だからこそ煽られ、大雑把な感覚的意見がうねりとなる」「遺伝子的に人間の優劣が可視化される社会にどう対応するか」「情報過多の時代における縮減の方法」――。

「"分人"という概念は"個人"という主体概念が限界に来ていると深く感じ発想した」「人はみんな複数の人格を生きている。"分人"とは対人関係ごとに生ずるさまざまな自分のことだ。1人の人間は、複数の分人のネットワークでできており、"本当の自分"という中心はない」「私たちは、自身のアイデンティティを、複数の仕事――その人間関係と収入源――家族や友人、趣味といい多数の関係性の集合として捉え直さなければならない」といい、「対外的な関係性に基づく分人の構成をコントロールできる――これは、私たちにとって、自由の大きな意味がある」「複数の分人を生きる、というのが私たちの自由の根幹」「複数化することで、いつでもそれぞれの対人関係から離脱できる状態でいることが重要」という。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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