極上の孤独.jpg「孤独ほど、贅沢な愉楽はない。誰にも邪魔されない自由もある。群れず、媚びず、自分の姿勢を貫く。すると、内側から品も滲み出てくる。そんな成熟した人間だけが到達出来る境地が『孤独』である」――。

たしかに現代では、孤独に対して負のイメージが強い。しかし、本書が大きな話題を呼んでいるのは、それは少子高齢社会となって一人暮らしが急増していること、人間関係に悩む人が多いストレス社会であること、メール・ライン・SNS等の情報社会で輪の中にいないと淋しくて仕方がない等々、より依存的社会の歪み・軋みが露わとなっている現実があるからだ。たしかにスマホが淋しさを助長している。

「淋しいとは一時の感情であり、孤独とはそれを突き抜けた一人で生きていく覚悟である」「他人に合わせるくらいなら孤独を選ぶ」「孤独上手は中年から本領を発揮する」「一人で行動できないと楽しみが半減する」「恥と誇りは表裏一体である。自分を省み、恥を知り、自分に恥じない生き方をする中から誇りが生まれる。それがその人の存在をつくっていく。そして冒すことの出来ない品になる」「孤独と品性は切り離せない。孤独を知る人は美しい」「孤独の中で自分を知る。孤独な人は、いい出会いに敏感になる」・・・・・・。

「凛とした」「毅然とした」「品のある」「美しい」生き方を、「極上の孤独」として語る。


魔力の胎動.jpg

「ラプラスの魔女」の前日譚という位置付け。5つの短編よりなるサイドストーリー。最後の「魔力の胎動」は「ラプラスの魔女」につながっていくもので、青江修介の硫化水素ガス事故(事件)との出会いが描かれる。

「あの風に向かって翔べ」――不調に苦しむベテランのスキージャンパーの復活に、羽原円華が驚くべき能力を発揮する。「この手で魔球を」――工藤ナユタの鍼治療を受けていたプロ野球投手でナックルを扱う石黒。その球を受ける後継者を立て直すために、円華が動く。「その流れの行方は」――ナユタの恩師・石部が息子の水難事故で自分を追い込みふさぎ込む。解決に向かって円華が現場で流体力学実験を敢行、真相を解明する。「どの道で迷っていようとも」――盲目の作曲家・朝比奈は、助手が転落した衝撃に打ちのめされていた。ナユタの過去が明らかにされ、円華の現場での科学的分析で事態が解明する。

いずれも、ラプラスの魔女の不思議な異能の持ち主・羽原円華が活躍する。鮮やかとしかいいようがない。リズムと心情が心地よい。


リズムの哲学ノート.jpg宇宙のリズム、生命のリズム、月の盈ち虧け、海の波、心拍・呼吸、舞踊のリズム、世阿彌の「序破急」、「鹿おどし」の構造――。「無意識がもたらす正確さ、断絶が増幅する流動、死を含むことで生きる生命、いずれを見ても逆説的というほかないが、この逆説性こそがリズムの本質である」という。宇宙論、生命論の本質に迫るまさに「リズムの哲学ノート」に身震いする思いだ。常に、仏法の「法概念」「諸法実相 如実知見」を考えながら読んだが、難解のなかにも開けるものがあり、嬉しい思いがした。言語絶する世界に踏み込む凄い著作だ。

「認識と行動の新しい関係を示唆する考察はすでに哲学界にも少なからず現れている。典型的なのがポランニーの暗黙知論であり、それに先立つベルクソンの自由論であった。・・・・・・暗黙知の主体は理性でも意識でもなく、訓練され習慣づけられ、それ自体『自主的秩序』と化した身体であった。・・・・・・またベルクソンの自由は意志の選択とは正反対に、危機に臨んで純粋持続が自生的に発動する現象であった。・・・・・・そして本稿では長い考察を一貫して、認識の主体を身体そのものと見なすとともに、認識の主体と客体の二項対立も乗り越えようと努めてきた・・・・・・」「リズムの特性の第一はそれがもっぱら顕現する現象であり、ひたすら感知することはできても、それを造りだすことはできないという事実である。そしてその第二の特色はそれを感じることが喜びであり、その認識が解放感に直結しているという不思議である。たしかにすべて知ることは喜びを伴うが、リズムを知ることの歓喜は次元を異にしている」・・・・・。

リズムを体感しながら生きる。みずからが「運ばれていること」を深く感知する。ベルクソン、ポランニーを経て、最後の「人間至上主義を超えて」に至って、満たされた感がする。


そして、バトンは渡された.jpg父親が3人、母親が2人。血の繋がらない親の間を小・中・高校時代にリレーされた優子。不幸と思いきや、それが「親が変わっただけで、私は何も困ってない。全然不幸ではない」とリキむことなく感じ、言う。

彼女はいつも愛されていたし、どの親も親としての無償の愛情を注ぐことに喜びをもち、生き甲斐をも見い出していた。当然、家族がまた変わるかもしれないという不安があり、家族でありたいと振舞う緊張感が互いにあるが、それをも融かす愛情にくるまれる。

優しさと温かさに満ちた小説。普通なら激しくとげとげしくなる人間関係が、不思議にも「幸せな家族」の日常となる。優しく幸福感に包まれる。


悪の箴言(マクシム).jpg仏の歴史と文化と伝統、神と人間と教会、欧州の戦乱・攻防――。その激しくも深く蓄積されてきた思想・哲学と社交の中から抉り出された人間学。ルイ14世の時代に生きた文人ラ・ロシュフーコーの「マクシム」(辛辣な人間観察を含んだ格言、箴言)が紹介される。まさに「言葉の短刀」。ラ・ロシュフーコーとともに、パスカル、ラ・フォンテーヌ、ラ・ブリュイエール、E・M・シオランをも含めて、鹿島茂氏でなければできない圧倒的な力業の"悪のマクシム"。"社交する人間"で、他人には短刀かもしれないが、自分には「お前そんなカッコつけているけれど・・・・・・」とズバッと心の中を荒々しく掴まれるようだ。

「人間は自己愛(ドーダ)に生きる動物であり、どんなに自己愛と無縁に思われる言動にも必ず自己愛が潜んでいる。『マクシム』はドーダから始まりドーダで終わる究極のドーダ論だ」という。「人はパンのみに生きるにあらず。褒め言葉にこそ生きるのである」「"面倒くさい"は日本人を律する最高のルールである」「人間の営為のすべては気晴らしにすぎない。楽しい労働もつらい仕事も、遊びも戦争も。気晴らしだけが人間を無為と倦怠という最悪の事態から救い出してくれる」「ドーダは死よりも強し」「好奇心も善行も虚栄心にほかならない」「『理性による承認』がなされたとき、初めて人は自尊心の十全たる満足を得る」「人々が感心する徳は2つしかない。勇気と気前のよさである(生命と金銭という2つのものを軽視しているから)」「ホームグローン・テロリストにある"極悪非道ドーダ"」「自我は『他人の栄光』が許せない」「妬み、嫉み、恨みは生命力の根源」「情念の最大の敵は『面倒くさい』」「自己愛はおのれを破壊もする」・・・・・・。

「耳をふさぎたくなる270の言葉」と副題にあるが、本当に(本当だから)グサッとくる。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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