孔子とその学問.jpg「林大幹先生(国務大臣、環境庁長官)は、このたび――永遠の心を求めて――『孔子とその学問』と題する著作をものにされました。安岡正篤先生の高弟として、お若い時からその薫陶を受けられて、孔子の思想、儒学の大系、東洋的な物の見方、考え方に精通した泰斗であられます」と、平岩外四氏が序文を寄せている。

「人間の本性とは人間に備わっている『徳』を指す。人間はこの『徳』を抱いているがゆえに他の万物との『別』を保てる」「『人間はつねに孤(一人)に非ずして、群(集団)である(荀子)』との認識に立って個人が自分及び社会に対して果たすべき責務と個人と社会との在るべき姿を示した教えが儒教」との骨格をまず明らかにする。そこから他を思いやる心情の「仁」の徳(仁は人プラス二から成る)、正しい秩序を立てる基準が「礼」の徳(調和の徳)、集団生活には変わることのない不変の原則を確立することが不可欠であることから「信」の徳、行動規範としての「義」の徳、温故知新の未来への創造である「智」の徳。――この「五つの徳」を根本として生きていく。そこから「永遠の心を求めて」「永遠の生命・道と徳」と本書の骨格が語られる。

「吾が道、一以て之を貫く。夫子の道は忠恕のみ」「君子は和して同せず。小人は同じて和せず」「為政者の五つの徳――威・愛・清・簡・教」「東洋政治では道徳と政治は不即不離のものとし、一体観で貫かれており、すべての人が所有している徳性を、最も善く鍛錬した人物(道徳的・精神的に人格を陶冶した賢者)が政治の衝に当たるべきとした」「政治も経済も文化・芸術も、その根底にある人間の心・精神によって支えられておることを知らねばならない」「道徳を基本としない政治は王道を捨てた覇道であり、権力政治である」「才能よりも有徳の政治」「君子は言・訥(ひかえ目)にして、行敏ならんことを欲す」「巧言令色・鮮い(すくない)(鮮度の保たれている期間は短い)かな仁」「文・質・彬々(ひんぴん)――外形と内容は一体。質とは人間の内容である徳」「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずとなす。是れ知るなり」「徳は孤ならず、必ず鄰(となり)あり」・・・・・・。平成5年に出版された著作。


ちよぼ.jpg加賀百万石の前田利家の正室まつ。千代保は織田軍に攻め滅ぼされた朝倉家の家臣・上木新兵衛の娘で、まつの侍女となり、後に利家の側室となる。秀吉が明国へ触手を伸ばそうと肥前・名護屋城に向かう時、利家は糟糠の妻・まつではなく、若い側室の存(あり)を同行させるつもりだったが、存は体調をこわしており、思いがけず千代保が同道する。それが側室となる機縁となった。千代保の人生は波乱に満つものとなったが、次々に降りかかる荒波を乗り越えて、三代・前田利常、四代・光高ら子孫たちを育て上げた。一族を守り、前田家を守るために一身を擲って闘い続け、頼られ慕われた女性であった。機転がきき、決して悪口や愚痴はいわず、笑みを絶やさない女性だったという。

朝倉家滅亡、本能寺の変、柴田勝家・秀吉の賤ヶ岳の戦い、秀吉の朝鮮出兵、関ケ原の戦い、大坂冬の陣・夏の陣・・・・・・。歴史の大波を浴びながら千代保はしっかりと周りを守った。心配りもして励ました。正妻・まつと若い側室・千代保との激しい意地の張り合い・確執もあったが、「老いたりといえども凛として、一度として下手に出ることのなかったまつを『あっぱれ』と胸の内で称賛し、まつが加賀前田家の太陽なら自分は月、好敵手に恵まれた半生をこの上なく幸せだと思った」と「加賀百万石を照らす月・ちよぼ」を描く。近辺に及ぶキリシタン弾圧や、前田家を守るために長年にわたる"江戸での人質"をも安詳として受ける。能登に日蓮宗の五重塔を建立する。寿福院「ちよぼ」の波乱の生涯を描く。


桔梗の旗.jpg天正八年から天正十年(本能寺の変)、明智光秀は何を考えていたのか。それを光秀の息子・十五郎(光慶)と、はからずも女婿となった明智佐馬助(秀満)がその思いを語る。

光秀には、頼るべき股肱の臣が少なかった。浪人の身が長く、信長に抱えられたのも他の家臣よりはるかに遅く、短期間のうちに信長に引き上げられたからだ。筆頭家老の斎藤利三、家老・溝尾茂朝、長き陣借りの日々の果て光秀に会った明智佐馬助。また信長の側室となった妻木殿(光秀の妻の妹)。十五郎の師匠となる茶人の津田宗及、連歌師の里村紹巴。

十五郎が信長にどうしても認められない。光秀も十五郎自身も悩む。信長に取りなしてくれた妻木殿の死が明智一族に衝撃のボディーブローとなる。信長の長曽我部叩きが、仲介役の斎藤利三を追い込む。さらに信長はいう。「貴様の倅は孵(かえ)らぬ卵である」「わしは、力なき者を家臣に置くつもりはない。貴様を傍に置いたのは、忠勤ぶりを買ってのことではない。毎回、わしが望む以上の成果を挙げてきたからぞ。わしの役に立ちさえすれば、泥棒であろうが不忠者であろうが構わぬ。だが、力なき者だけはいかぬ」と。「信長は才能、才覚を愛している。ただ己の覇道の役に立つ者たちを欲しただけだ」・・・・・・。そして信長は光秀に「明智への家督は明智佐馬助に継がせる」とまで断じたのだ。その背景には「戦乱は少なくなる」と見た光秀、「天下から明まで」を視野に入れる信長。それが十五郎の育て方、人物への見方が根本的に食い違ったのだ。明智光秀は追い込まれ、「明智家をめぐる状況は風前の灯」となる。

「時は今 雨が下しる 五月かな」――。本能寺の変。光秀の死。そして坂本城の十五郎の下に集った明智衆は、最後にどう決断したか。


維新の影  姜尚中  集英社.jpg「近代日本150年、思索の旅」が副題。2018年は明治維新から150年目の節目の年。それに合わせて刊行された。この年は私も年頭からの会合で、司馬遼太郎の「『明治』という国家」を引きつつ挨拶をしたことがある。

明治以来の近代国家を急ぎに急いで築こうとした日本――。「殖産興業、富国強兵に励み、四つの島を中心とする『固有の本土』に沖縄など周辺の島嶼を『固有の領土』に組み入れ、やがて国境を越えて東アジアへと膨張していった国家の歩みは、敗戦という挫折を経て、不死鳥のように甦り、経済大国へとのぼり詰めていく」――。そのなかには光と影があり、影の中心の暗黒から光が逆照射される。100年前の夏目漱石の慨嘆であり、内村鑑三、新渡戸稲造、岡倉天心らは、それぞれ「日本人とは」との問いを発した。光と影どころではない。「近代日本の宿痾がどこにあるか」を静かに語り続けている場所と人に、姜尚中さんは足を運ぶ。「エネルギーは国家なりを支え、今や廃墟となっている軍艦島や三池炭鉱の廃坑、女たちの哀歌」「メトロポリス・TOKYOの片隅や超過疎の球磨村など」「東京北区にある教科書の図書館・東書文庫や地方の国立大学・新潟大学」「人生儀礼の連鎖を斧で断ち切った東日本大震災や熊本地震の現場」「崖っぷちの農――秋田県大潟村の今」「海が語り継ぐ日本の宿痾・水俣病とそれを放置した差別構造」「足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地、谷中村滅亡」「長野五輪、大阪万博の『無邪気なほどにポジティブなエネルギーが満ち溢れていた』あの時と今、そして未来」「ハンセン病、相模原障害者施設殺傷事件の"差別という病""優性思想"」「沖縄戦と米軍基地」「在日のコリアタウンと国家のしずく」・・・・・・。

「歩き思索した旅」で感じたのは「国家というものの酷薄さ、むごさだった。・・・・・・私はそれらの背後に国家の影を見ないわけにはいかなかった」「政治家には、そうした国家の相貌を国民のために血の通ったものに切り替える役割が与えられているはずだ。経世済民とはそのことを意味している」「歴史はただその都度、勝利をかっさらっていく人々のためにあるのではない。歴史のなかで消えていった名もない人たち、失意と苦難のうちに天を仰ぎ自らの境遇を呪いながら果てていった人々。そうした歴史の墓場に打ち捨てられた人々を甦らせ、破壊されたものを寄せ集めてつなぎ合わせることができれば、私はそうした死者のなかにいる父や母に再び会える。そのような夢を見ることがある」「私の旅は、死者も生者も含めて、そうした"相続人"たちと出会う邂逅の喜びに満ちていた。近代日本は、そうした人々を輩出してきたのであり、そこにこそ、この国の希望が宿っているのである」と思索の"拠点"を語る。近代日本の大事な"歴史の主役"が、実はここにあることを剔り出す。本当にそうだ。


類 朝井 まかて.jpg文豪・森鴎外を父にもった末子・森類の幸福と不幸、家族の真実――。子どもの人格をどこまでも尊重し、親切を尽くした慈愛あふれる鴎外、子供が直面する不条理や理不尽を引き受け、"悪妻"と非難されたり衝突した"世間の父親"のような損な役割を果たした母・志げ。しかし夫を愛し、恋い続けた「鴎外にこの妻あり!」との思いが読み進んで感ずる。類の姉の自由思考の茉莉、しっかり者の杏奴はともに文才を生かす。頼りなく生活力もなかった"お坊ちゃん"の類と二人の姉とは「森家のきょうだい(森類)」をめぐって"口もきかない内輪揉め"状況も続くが、文豪の子としての襟度や良家の育ちの良さが"愛情の絆"として滲み出る。

「あなたは生存競争に参加せず、悠然と暮らしたいだけの人なのよ。森鴎外というお人が充実し過ぎていたんだわ。あなた、お父様に全部持っていかれてしまったのよ(妻・美穂)」「父親が偉大すぎて、息子は何一つその天資を受け継げなかった」「僕の、本当の夢。それは何も望まず、何も達しようとしないことだ。質素に、ひっそりと暮らすことだ」「子供たちがこの母親(美穂)に寄せる愛情と信頼は、類がたじろぐほどに深い。生活能力と野心に欠けた夫を支え、旨い飯を拵え、清潔な衣服と寝床を常に整え続けてきた」・・・・・・。

父とあまりにも違う人生、異なる生き方――。「僕はこの日在の家で、暮らしているよ。何も望まず、何も達しようとせず、質素に、ひっそりと暮らしている。ペンは手放していない。波音を聞きながら本を読み・・・・・・」。

茉莉、杏奴、そして母。大正11年(1922年)60歳で没した文豪・鴎外の妻子それぞれが、背負い格闘した姿とその心性が描かれる。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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