中国、三国時代――。221年、劉備が蜀を建国する。魏の曹操、呉の孫権との長い攻防戦の中での最も小さな国の建国だが、「無垢な人」劉備を慕う関羽、張飛、趙雲、そして諸葛亮孔明は特に名高い。本書は「三国志名臣列伝」の「蜀篇」。この4人に加えて、李恢、王平、費褘の3人。7人を描いている。後の3人は特に劉備の死(223年)以降の活躍となる。「諸葛亮は魏を攻めながら、自分の後の為政の席は蒋琬に、その後は費褘に、という未来図を画いていたのであろう」「蒋琬が亡くなってからニ年後に、馬忠、王平という名将が逝去し、蜀の人材がさびしくなってきた」と言う。蜀の滅ぶのは263年と短い。劉備、それを関羽・張飛・趙雲らが支えて作った国、それを継いだ丞相・諸葛亮の国といって良いだろう。
戦にはどこまでも人材だ。それを惹きつけるリーダーの徳と質。「玄徳は珍しいほど無垢な人なのだ。関羽はここで劉備の本性を見たおもいで感動した。けがれるれる一方の世で、どこまで無垢をつらぬいてゆけるか、それをみとどけたくなった」「劉備ほどおもしろい人に遭ったことがない。どこにも欲がみあたらない」「劉備とはつくづくふしぎな人である。ここでも死ななかった」「自分の命運は、天が決めてくれる。おそらく劉備はそういう心胆のすえかたをしていたであろう。人の智慧などたかが知れていて、かえっておのれを縛るものになる。そうおもっていたふしがある」「これを徳の力というのだ、関羽は張飛にいったが、なるほどそういうしかあるまい。若いころから劉備の近くにいた張飛は、劉備から感じられる、心意気、が好きだった。劉備は早くに父を亡くしたので、母しかいないその家は貧しかった。それも張飛は知っている。ところが、なぜか劉備には吝嗇のにおいがしなかった」・・・・・・。
関羽も張飛も孫権を嫌った。「曹操は敵であるとはいえ、こんなうすぎたないことはせぬ」。張飛は関羽を兄と慕う。「人には表と裏がある。が、なんじには表しかない。めずらしい正直者ではあるが、敵を敵として見るばかりが能ではない。平定するということは、地を取るというよりも、人を取るのだ」と関羽は張飛を訓戒する。
諸葛亮のあざなは「孔明」――。「孔は、とても、たいそう、などの意味をもつ。つまり孔明とは、とても明るい、ということである」――。「王平」の章では「王平は残留の兵を拾い、逃げまどっている将卒を収めて、帰還した。天下に恥をさらし、蜀の全国民を失望させた大敗となった。すべてが順調であったのに、それを馬謖らがぶちこわしたのである。諸葛亮の嘆きも怒りもおさまらなかった。・・・・・・だが、街亭での大敗の原因は、諸葛亮が先鋒の将に馬謖を選定したことにある」と描いている。その3年後が五丈原だ。234年、諸葛亮は死ぬ。