内舘牧子さんの「大相撲」「相撲道」への愛情は桁はずれだ。「土俵で相撲を取ったこともない女が」の噂を耳にした時は、「ここにいる男性委員も土俵で相撲とってませんよ、と言い返したのだから、それは嫌われる」と書いてある。完封勝利だ。私は大学の相撲部。相撲には相当詳しいが、内舘さんには全く及ばない。本書は、大相撲への愛情に満ちた専門書のような凄みがある。しかも「初恋の人が鏡里」と言うのだから。相撲部の経験では、とにかく立ち会いが怖いし難しい。ジャン・コクトーは「相撲の立ち会いはバランスの奇跡である」と言ったようだが、やる方から言えば立ち会いが勝負だ。本書にある「後の先」は、「相手が先に立ち上がった瞬間、一瞬遅れて立たった力士が、相手がつっかけて腰高になった瞬間、下からぶつかり主導権を握る」だと思う。足腰が強くなければできない技だ。
相撲は「相撲道」だ。「勝てば文句ねぇだろう」(朝青龍)は、スポーツではあっても相撲道ではない。「白鵬の我流に崩した土俵入り、立ち会いの張り手、『かちあげ』とはいえないプロレス技のエルボー、土俵上でのガッツポーズ、懸賞金の品のない受け取り方」には厳しい。横綱は香りと品格があって横綱だ。双葉山の「後の先」を目指していたのに残念だと言う。数学者で作家の藤原正彦氏が舛添要一都知事の辞任について語った言葉、「頭の良いはずの彼なのに、日本人の善悪が、合法か不法かでなく美醜、すなわちきれいか汚いかで決まることを知らなかった。嘘をつく、強欲、ずる賢い、卑怯、信頼を裏切る、利己的、無慈悲、さもしい、あさましい、ふてぶてしい、あつかましい、えげつない、せこい・・・・・・は、すべて汚いのだ」を内舘さんは引いている。禁じ手ではない、違法でもないが、汚い技は日本の道徳基準に合わない。これはまさに今年の「政治とカネ」を巡る政治家への批判の急所だろう。
もう一つ、「時代錯誤か伝統か?――女人禁制の不思議」の問題に徹底して踏み込んでいる。「『霊力を秘めている血』を体内から溢出する女が、男を脅かす存在になり得る危惧」「好奇の目にさらされた見せ物・女相撲」「女は穢れた存在か」・・・・・・。徹底して調査研究して、「土俵は結界である。結界内は聖域で障害物は入れない・・・・・・。祭祀でも芸能でも宗教でも何でも、長きにわたって死守してきた女人禁制をどうするか」「独自で決断することだが、そのかわり、協会も結界された『聖域』の重みをもっと理解する必要がある」と言う。
「勇み足、あごが上がる、懐が深い、家賃が高いなどの相撲由来の言葉」「雷電為右衛門」「理事長の割腹」「腕力に劣る双葉山の真骨頂、相撲力」「北の富士と貴ノ花、つき手か生き体か」・・・・・・。面白い話が山ほど出てくる。