今年2月に逝った古井由吉さん。未完の「遺稿」を含めた著者最後の小説集。昨年2019年の立春から晩秋、千葉や東日本全域で台風に襲われた時までの折りおりの事象のなか、病みゆく身体のなかで感じた心象風景を4編で綴る。「自分が何処の何物であるかは、先祖たちに起こった厄災を我身内に負うことではないか」(遺稿)が、最後の言葉となっている。
「雛の春」――インフルエンザの流行するなか、またも入院。病院のホールに飾られた雛飾りに、自宅にあった雛人形を思い出し、空襲の記憶や炎上する人形、雪の夜の女性の顔が連歌のように続いて出てくる。「われもまた天に」――令和となった初夏、天候不順が続き、高齢者の車の暴走による死傷事故、中年男が登校中の子供の列に包丁で切りつけるなどの事件が起きる。疫病について明の医学者・李挺の言葉「吾のいまだ中気(中和の気)を受けて以って生まれざる前、すなわち心は天に在りて、五行の運行を為せり。吾のすでに中気を受けて生まるる後、すなわち天は吾の心に在りて、五事の主宰を為せり」が心に浮かぶ。そして「そんなことを繰り返して年老いていくものだ」と思索をつぶやいたり、「道に迷った」思い出を語る。
「雨あがりの出立」――梅雨どき、次兄の訃報が届く。父親、母親、姉、長兄の死んだ時を思い起こす。次々と取り止めもなく思っては感慨めいたものに耽ける。「遺稿」――9月、10月と襲う台風、自宅や入院しての病院で、「重たるい天候も体調も改まろうとしない」なか、思念が途切れることなく続いていく。それが切れることなき長い文章で語られる。弱まっていく身体感覚が"老い"をよりリアルに語りかけてくる。
空襲を体験し、この世の厄災を常なるものと生老病死の次元でとらえてきた古井由吉さんの晩年の心の深淵が、静かに迫ってくる。
「急告! 生まれたばかりの男の赤ちゃんを我が子として育てる方を求む 菊田産婦人科」――。昭和48年4月17日、地元・石巻の朝刊2紙に掲載された広告だ。「実子として」と書くところを、「我が子として」と遠回しにして表現したもので、違法の「斡旋」をした産婦人科医・菊田昇が、悩み抜きたまりかねて出したものだ。「妊娠8か月以上の女性には出産してもらって、その赤ん坊を不妊症の夫婦にあげて実子として育ててもらう」「中絶を望んでもそれができない段階の女性と不妊症の夫婦をつなぎ合わせることで赤ん坊の命を助けられないか」「妊娠7か月の中絶を禁止すれば、医者が産声を上げた赤ん坊に手を下す必要はなくなる」「今回の問題の根本にあるのは、産婦人科医が違法行為をやらねばならねえ状況にあるという現実だ」・・・・・・。1970年代に起きた産婦人科医・菊田昇の「赤ちゃんあっせん事件」の真実を、ノンフィクションの騎手・石井光太氏が、小説として描いたもの。
新聞のスクープ、テレビ報道、国会への招致、日母からの除名処分等々のなか、菊田昇は母が営む遊郭で育ち、遊女の悲惨さを「小さな命を救う信念」に代え、闘い続けた。そして昭和62年(1987年)、「特別養子縁組制度」が成立する。それを菊田は自らのがんと闘うなかで聞く。
「ベトナム残留日本兵とその家族」が副題。1945年8月の終戦によって、日本軍は武装解除され引き揚げることになったが、ベトナムには少なくとも600人以上が帰国せず残留したと言われている。そしてその多くが、ベトミン(ベトナム独立同盟)からリクルートを受け、独立をめざしての抗仏戦争に兵士、軍事教官、軍医等で働いた。しかしこの戦いを終えた9年後の1954年、ベトナム政府は残留日本兵の帰国を促す。すでに家族がいたが、家族の帯同は許されなかった。そこには、東西冷戦、共産主義陣営の思惑もあったようだ。その後、帰った日本人兵士自身も苦難を強いられ、ベトナム戦争で敵国アメリカの同盟国と見なされた日本人を父親とする残された家族も「日本ファシストの子」と差別される日々を送ることになる。
「なぜ残ったのか」「なぜ1954年には家族を残して日本へ帰ったのか」の疑問を抱えつつ、小松みゆきさんは「引き裂かれた家族」の真実に迫り、救いの手を差し伸べるべく奔走する。自身がベトナムに住んで30年という。凄い、素晴らしい、粘り強い行動力だ。
ベトナムの人は「家族への思い、とくに父親への思い」が強い。しかし、思いが「出会い」に結びつくにはハードルは高く、帰った日本兵士の側も、苦しい事情があり口は固い。全てが、「戦争」によってもたらされたことを感じる。小松さんは私の世代、兵士たちは親や兄貴たちの世代だ。「理不尽」な運命をもたらした「戦争」を、自分の親を思い起こしながら読んだ。スアンさん、ロックさん、ズンさん・・・・・・。熱意が出会いの"形"となっていくのは感動的だ。
「AI・IoT時代の社会革新」という副題と、「第1章 なぜ日本からはイノベーションが生まれないのか」「第5章 いまこそ『変われる国・日本』へ」の表題で、本書でいわんとすることは明確だ。モノがインターネットにつながるIoT時代、そしてAIの時代。そこで大事なのは「オープンにつながる」こと。しかし日本は機器が作ったメーカーのアプリにしかつながらない「クローズ志向」。IoT化の核となるAPIのオープン化で初めてIoT対応機器となる。「イノベーションではチャレンジが必要。"絶対安全""絶対大丈夫"などということは複雑化した現代社会では無理だが、日本ではすぐ"誰が責任"とかになる」「日本は"変えることを恐れる"傾向が強い。責任感が強くて不安に弱い国民。ワクチンでも、接種した被害を過剰に捉え、何もしない傾向になる。法律も大陸法方式、やっていいことを書くポジティブリストの考え方で、それ以外はダメ。米国とは反対」「モノを売るのではなく、サービスを売る。IoTで機器がつながりサービスもオープンAPIで連携すればもう単なるIoTを越える」「重要なのは、技術の問題というよりどうシステムをデザインするか、そして社会のデザイン、会社のデザイン、生活のデザインをするか、という哲学。そこが日本は得意でない」「オープンデータ化で後れを取る日本。人が読む情報公開とコンピュータが読むのが前提のオープンデータは別物」「日本はいまだに政府も地方自治体もデータは紙ベース。紙もハンコも断捨離せよ」「日本の問題は技術ではない。リスクを取っても挑戦するというマインドセット、社会を変える勇気、覚悟だ」・・・・・・。まさに「手法でなくやり方レベルから根本的な変革を起こそうという姿勢こそがDXの本質」、その意味では新型コロナが強制的に「変わらざるを得ない」状況を作り出している、今がチャンスだという。
坂村健先生がけん引するINIAD(東洋大学情報連携学部)も視察し、この先駆的挑戦を体感した。まさに文・芸・理の融合、リカレント教育の必要・不可欠からきている挑戦だ。また歩行者移動支援、観光や災害弱者支援になる「東京ユビキタス計画・銀座」を視察、現場で説明も受けたこともある。坂村先生は1980年代からオープンなコンピューターアーキテクチャーTRONを構築し、このTRONは米国IEEEの標準OSに採用され、IoTのための組込みOSとして世界中で使われているものだ。デジタル化が全ての方面で叫ばれ、遅れている日本の変革が迫られている今、AI・IoT時代の本質を見誤らないように、そして遅れるな、変革できる、との指摘は重い。