戦後家族モデルは「大多数の男性労働者の職の安定、収入増」を前提として、「夫は仕事、妻は家事で豊かな生活をめざす」というモデルがつくられ、しかもこれが多くの人にとって実現可能であったがゆえに、家族の安定をもたらした。
しかし、それは今、「男性の職の不安定化」「戦後家族モデルの魅力が低下し、相当の努力を払ってまでして到達したいものでなくなった」
「欧米型平等モデル(夫婦がフルタイムで働き、経済的豊かさの中で、家事・育児を分担する)も、自己実現家族モデル(好きな相手と結婚し、好きな仕事をし、豊かに生活する)も、ともに魅力はあるが、実現可能性が不十分である(男女ともに職の不安定がある)」ことから迷走状態にある。家族に関しての閉塞感が出るゆえんだ。それは、本書第6章の「若者家族の空中分解」「勝ち組家族と勝ち負け先送り家族と負け組家族に分解」にも描かれる。
男女共同参画を進めても「勝ち、負け」は結婚を考えても出るし、「家族の絆を!」と叫んでもなんともならない社会全体の構造変化がある。最後に山田さんは、(1)若者の将来にわたる経済基盤の強化(2)社会制度から「漏れた」人々への支援プログラム(3)多元的で誰でも実現できる「家族モデル」の創造――を危機感をもって対策として訴える。
オシムの言葉には、ユーモアがあり、思想があり、したたかな戦略的読みがある。しかし、その底にはスラブの哀愁と多民族共存の良きサラエボが、生死をかけた戦乱の地となった悲しみが沈殿している。監督には孤独がついて回るが、オシムの独特さは、多民族国家ユーゴスラビアの崩壊と民族闘争、そして何十年前から続いている国家紛争で死線を歩いたいわば宗教的境地によってつくられたのではないのか。
「他人の評価や、メディアの賞賛に興味がない、反俗的な本質追求の人」というのは、生きてきた世界に当然、関係があろう。
「私のサラエボが戦争にあるのに、サッカーなどやっていられない」「選手を先入観で見ない。すべて平等に扱う」「サッカーの試合とは絶対一人では成立しない。君たちの人生も同じじゃないか」「休みから学ぶものはない」「重要なことはミスをして叱っても使い続けることだ。選手はミスを恐れてリスクを冒さなくなってしまう」――失点を恐れず走り回って攻め続ける「リスクを冒しても攻めろ」というオシムのサッカーは、悲しみを抱きしめて未来を切り開いたオシム氏の生き方なのか。
日本は安定的な国であったが、なぜ豊かになったのに、景気も回復しているというのに不安や不満が高まっているのだろうか。
本書では人生前半の社会保障と定常型社会が大きなテーマになっている。わが国は、限りない経済成長=生産の拡大が背景となって、完全雇用が達成されていたし、それとあいまって、終身雇用の会社と強固で安定した家族という共同体による"見えない社会保障"があったと広井さんはいう。それが日本の安定を支えたわけだ。
しかし、経済成長に限界があり、雇用の流動化が起き、会社もまた激変・盛衰にさらされ、家族の迷走が起き、しかも、高齢化が加速された時、社会に不安・不満が起きることは必然である。放り出された高齢者は脆弱な存在となり、働くものには不安と不満がうっ積する。
そうすると、事後対応的な福祉政策ではなく、福祉概念を雇用、そして人と人との絆をもつ地域といった創造的かつ広範なものにしなければこの国はもたない。そこで焦点となるのは、人生前半の社会保障ということになる。教育の深さこそが未来の社会を決定づけ、教育の強化こそが失業対策にも、国際競争力の強化にもつながり、高度成長時代の上昇志向の教育ではなく、人間の豊かさの為の教育が大事となる。格差の最大の要因の一つは、教育であり、20代前後の若者にもっともっとチャンスを与える支援が必要だ。
また福祉社会は人と人との関係のあり方にカギがあるとし、「福祉政策と環境政策の統合」などにもふれている。
