岡倉天心(1862~1913年)の曾孫であり、近現代の国際関係史を専門とする著者が、「茶の本」(1906年)について世界に広がる文化交流、桁はずれに多い人間交流を通じて語る。あまりの世界的人脈に驚嘆するばかりだ。
「天心は『死ぬまで現役』であった」「1898年3月に文部官僚(東京美術学校校長)を退官した後も、隠遁生活というライフスタイルは実行できなかった。それは私よりも公を重んじたことと、23、4歳で異国=異文化を身近に感じ、吸収するとともに、『国華』や英文著作によって、日本文化を発信するのが、自分の人生であるという自覚を抱いていたからに他ならない」と言う。1902年にはインド滞在、日露戦争勃発直前には「日米送往」の生活(1904〜1913)を送り、東洋の美術を欧米に紹介、日本文化の発信、美術界の革新に奔走し続けた。
「『茶の本』はけっして茶道の本ではない。20世紀初頭の日本が直面していた文化的な困難を乗り越えるために考え抜かれた書といえる」――。明治は西洋文明を受容し社会は大変革の時代であったが、日本と日本人のアイデンティティーに知識人は呻吟した。内村鑑三の「代表的日本人」(1894年)、新渡戸稲造の「武士道」(1999年)、牧口常三郎の「人生地理学」(1903年)、そして岡倉天心の「茶の本」は、日本と日本人を世界に向けて発信したのだ。その意味は限りなく大きい。
「『茶の本』によって天心は茶の人生哲学を説く。天心は一椀の茶を前にして、これこそ人生に美と調和とを授ける秘宝であるという。それは美の宗教であるとしてもよい。かれは相対の中の絶対、空虚の中の実体、不均衡の中の均斉を語ろうとする」(福原麟太郎)、「天心は茶道をDemo cracy(民主主義)であるとし、茶室を『平和の館』と位置づけている(茶室では、上下の差はない)」と言う。タゴールは、1916年の初来日の折り、「日本はアジアの前衛となっていて、新しい道に自分についてくるようにとアジアに呼びかけている。・・・・・・近代文明をそのまま受け入れてはならない。あなた方こそ、その文明に、あなたがたの東洋精神が要求するような変化を遂げさせねばならない」と言う。大岡信は、「(茶の本は)茶道入門としても、道教思想を中心とする東洋思想入門としても読める。彼の道教に関する蘊蓄は並のものではなかった。また私は今までこれを芸術論として読んできた」と言っている。天心は、西の科学が、東の精神性よりも価値あるものとされていたことに対し、「東洋の理想」「茶の本」を通じ、アジア=東洋は、野蛮・未開状態ではなく、独自の文明・文化を有していることを示そうとした。かつ、天心は科学を蔑む攘夷ではなく、西の良いものは積極的に受け入れる立場を取った。それは見事に成功したと言って良い。ピゲロウは「東と西は岡倉によって相逢ったのだ」と言っている。
この本を読むと、天心の世界的な人脈の広がり、様々な人への影響力の強さに驚嘆する。既に述べたタゴール、ピゲロウ、大岡信。島崎藤村、フランク・ロイド・ライト、ラフカディオ・ハーン(ハーンを尊敬していた天心)、アイルランドの社会事業家・教育者のニヴェディタ、モース、フェノロサ、ガードナー夫人(1904年以来のボストンでのガードナー夫人のサロンの豊富な人脈)、ベルクソン、九鬼周造、そしてインドの詩人プリヤムバダ・デーヴィー・・・・・・。書けば埋め尽くされるほどの人間関係の広さ、広がり、影響力の強さだ。
1900年前後の日本と日本人を巡る呻吟の思想闘争は今、流動と諦観、無感覚の中にあるようだが、摩擦熱はあってこそ、文化は良質な力を持つように思う。