hikaeyo.jpg伊達政宗の側近として終生支え続けた戦国屈指の「懐刀」・片倉小十郎景綱。政宗の心の内を誰よりも知り、他将からも一目置かれ、秀吉からも家臣にと乞われ、家康にも求められた奥羽随一の智将・小十郎。激しい攻防の戦国時代における、その智と力と苦悩を生き生きと描く。奥羽から見た戦国時代の様相が活写され大変面白い。
転機がくっきりと描かれる。16歳の小十郎。出羽国置賜郡は伊達輝宗の領地。祖父・片倉景時は伊達家に仕え、その居館を継いだのが父片倉景重。争いが絶えない奥羽、「喜多(小十郎の20歳上の姉)が養育する梵天丸」「一つにまとまった新しい奥羽の国を小十郎は想像した。飢えがなく、誰も死なない世の中だ」・・・・・・。小姓に選ばれる。門閥の家からではなく身分が低いが、梵天丸の世話役となる。梵天丸の力を伸ばす働きが求められるが、「仮にそれが若君の意に添わぬならば――。ひとこと『控えよ』とお申し付けなされよ」と約束する。「家中の誰よりも、主君への忠義を示すのだ。野心を忠誠心で覆い隠せ」――。政宗15歳、小十郎25歳、「相馬を片付ける」戦いが始まった。上方では、織田信長の権勢が、頂点に達し、本能寺の変、そして、羽柴秀吉が台頭していた。

政宗が家督を継ぐ。父・輝宗の銃撃死を巡って、また政宗が母から毒殺されようとすることを巡って、歴史上大きな問題となっているが、本書では明確にその謎解きをしている。大変な覚悟が示される。本書の奥深さだ。最大の戦闘となった天正13(1585)の摺上原合戦――。奥州南部の諸家は皆、佐竹側につき絶対絶命のなかで、政宗軍の決死の戦で切り抜け、さらに芦名を打ち破った(芦名滅亡)のだ。政宗23歳小十郎33歳、伊達は奥羽を制し、なんと120万石となる。

しかしこの時、畿内では、秀吉が関白となり、全国の大名に惣無事令を発していた。小田原城攻めで「白ずくめの装束」で、参陣したあの場面だ。この時、小十郎は秀吉から「豊臣の直臣になれ、5万石をやる」と誘われる。会津は召し上げられ、秀吉は政宗を警戒し、「政宗に煮え湯を飲ませて、自分への忠誠を確かめている」と思う。「目立たないこと」と、懸命になるが、秀吉率いる奥州仕置軍は蒲生氏郷が率いて北上する。会津は、蒲生氏郷のものとなる。さらに「政宗謀反の疑い」がばら撒かれ、上洛する政宗の度胸、その裏で駆け回る小十郎の知恵。苦しさと決断が伝わってくる。塗炭の日々、伊達家は泥水をすするように必死に生き延びたのだ。
1590
年代の暴君の秀吉、そしてその死。徳川との連携。「『謀反人が必要だな』と小十郎は独り言を口にした」。そして関ヶ原。小十郎の智略は凄まじいものがあり、政宗との間に隙間は全くない。

その後も、徳川の天下のなか、伊達家の苦しみは続くが、戦国屈指の「懐刀」小十郎と、戦国時代の命がけの攻防と心理戦を見事に描いている力作。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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