時は永禄12年(1569)、織田信長は満を持して上洛、足利義昭を室町幕府の15代将軍に据えた。明智光秀を呼び出し、武田と毛利の資金源である湯之奥金山と石見銀山の現在の採れ高、先々の採掘量を調べてこいと命ずる。現実主義者の信長は、「武門の戦いは所詮は銭で決まる。戦費を賄い続けられる者だけが最後には勝つ」と考えていた。同行するのは光秀の朋友である愚息と新九郎。長くとも2月で帰京せよとの命令だ。
光秀は2人を伴ってただちに隠密裏に甲州へ向かう。駿河湾の田子の浦に辿り着いた3人は、そこで土屋十兵衛長安と名乗る奇天烈な男と遭遇する。この男、元は大和の猿楽師の息子で、甲斐へと招聘され、今は武田家の出納や河川の普請、黒川金山の採掘などを手がけていると言う。そして湯之奥金山の採れ高、甲府への搬入量などを教え、石見に連れて行ってくれと求められる。
毛利は毛利元就の下、隆元、吉川元春、小早川隆景の3兄弟で勢力を伸ばし、石見金山も手中に収めていた。隆元が早逝し苦労知らずの輝元がわずか11歳で後を継いでいた。そこへ4人が入り、毛利の追手が迫るなか石見銀山に潜入、月ごとの銀の搬入、搬出の冊子にたどり着く。永禄9年の総搬入は1593貫、総搬出は1590貫。それらと街の状況をつかみ脱出に成功する。あたかも戦記物、隠密の画策物のようで面白く、ユーモラスでもある。
3人は信長に報告する。成果とともに、土屋十兵衛長安の正体については口裏を合わせる(九兵衛とか)。それを聞いた信長は「よくやった」と喜ぶが・・・・・・。
最も面白いのはこの点。「信長は何を考えて、武田の金、毛利の銀を調べさせたのか」「報告をどのように聞いたのか。喜んで見せたのか」「土屋十兵衛長安の正体をどう見抜いたか」・・・・・・。信長の戦略性、人物監視眼・・・・・・。なんとも恐ろしいほどで、面白い。なお、土屋十兵衛長安は後に徳川に仕えて歴史に名を残した大久保長安のようだが・・・・・・。