「『危機』の時代を読み解く」が副題。2020年4月から2022年12月まで、西日本新聞で毎月33回にわたって連載したもの。それに朝日新聞で毎週連載したコラムを加えている。その時の時代状況、現実を人類学者の眼で捉える。自分たちの「あたりまえ」の外側に出ることで、「ずれ」から自分と社会と世界を見る。異なる場所で生きている人びとの営みを通して、自分たちを知る。それが「人類学者のレンズ」の土台だ。新型コロナもそうだが、世界は生命の連関の中で「制作」されていく。「人間の社会や文化は人間の力だけでつくられているわけではない。現代の人類学は、この脱人間中心主義の思考を深めようとしている。・・・・・・人間以外のものに視点を置くと、世界の見え方が変わる。そんな視点の『ずらし方』も、人類学的なセンスだ」と言う。「人類学者は、人びとの生活に深く参与し、巻き込まれながら研究する。人類学とは世界に入っていき、人々と共にする哲学である。それは客観的な『知識』を増やすのではなく、『知恵』を手にするためのものだ」「知恵があるとは、思い切って、世界の中に飛び込み、そこで起きていることに、さらされる危険を冒すことだ」と言う。極めて刺激的で示唆的だ。
「PCR誕生物語」は面白い話で、はみ出し者で人望もなく、チームワークを嫌うキャリー・マリスのアイディアから始まった。「技術を使う現場でも、感情を持った生身の人間同士の泥くさい試行錯誤や調整が欠かせない。科学技術は人間の顔をしている。それが、科学が人類学の問いになる理由でもある」と語る。「感染症を見ても、興味深いのは、異変に気づいたのが、いずれも現場にいた医師だったことだ」「気付きは現場から、人びとの目線に立つ。その低い視点が人類学者のレンズの置き場である」と言う。極めて重要な指摘が続いている。
レヴィ・ストロースは、1962年刊行の「野生の思考」で、「未開」や「野蛮」とされてきた人びとが近代科学に匹敵する知性に溢れていることを理論的に示し、世界に衝撃を与えた。彼のいう「冷たい」社会は、「発展途上」でも「遅れている」わけでもなく、「循環的な神話の時空間によって、社会を不安定化させる変化への欲求をあえて制御してきたのだ」と言っている。ふつう人種差別への批判は「人類はみんな同じ(だから差別は良くない)」となるが、「レヴィ・ストロースは、逆に、人類には驚くほど多様性があることを議論を出発点とする」――。その言葉はそこに潜む「違うこと」への恐怖心を照らし出す。文明に進歩があるとしたら、違う諸文化の協働の結果であり、統合と分化を経て「進歩」するとする。「人種間に差異があることと、優劣があることとは違う」のだ。レイシズム(人種主義)の背後には、放置された社会の不公正がある。
人類学は客観的な数値ではなく、人間の個別で具体的な生にこだわる。「人類学者のレンズは、その水面下の動きを捉えようと、個別の生の文脈に潜り込み、この移りゆく世界で生きる意味を探ろうとしている」――現場でつかんだものを、既存の枠組みに頼って捉えそこなうなと戒める。
「物は固定した抽象的概念ではない。人間も単なる物体ではない。同じく風は物ではない。空気の流れであり、素材の動きであり、『吹いていること』である」と、ティム・インゴ、ルドの人類学、「世界の理解を解きほぐして、解体された万物をつなぎ直し、『生きていること』を鮮やかに蘇らせる人類学」を提示する。
ヤスパースの言う「枢軸時代――。「なぜ暴力の時代に哲学や宗教が開花したのか」について、グレーバーは、「貨幣による市場取引が発展するなかで『利己的な人間像』が生まれ、その反転した鏡像として、仁愛や慈悲を説く議論が活発化した」と言う。
資本主義にしても、民主主義にしても、国家にしても、婚姻儀礼にしても、当たり前を捉え返す視点――「未知なるものを身近なものに、身近なものを未知なものに」捉え返す視点、「社会的沈黙に耳を澄ますこと」が、先の見えない不確実性の時代に大事であることを、しっかりした軸を持って示している。日常に紛れている自分の思考を省みる、重要な視点が心に深く定置した。