田沼時代を追い風に、江戸の文化をリードした蔦屋重三郎の生き様を通して、泰平の世・江戸の活気ある姿を解き明かす。蔦屋重三郎は、江戸のメディア王と呼ぶにふさわしい実績の数々を残したが、それは田沼時代であったことを抜きにして語ることはできない。本書は、田沼意次の人生や、その時代に着目することで、蔦屋重三郎の実像に迫る。
蔦屋重三郎は、寛延3年(1750)に吉原で生まれる。9代将軍家重の時代である。両親と生き別れになり、喜多川氏が経営する商家の蔦屋に養子に入る。蔦屋は吉原で茶屋を営んでいた。重三郎が書店を開業したのは安永元年(1772)、23歳の時。吉原の入り口に書店耕書堂を開店した。「一目千本」「吉原細見」などから始め経営基盤を固めた上、日本橋へ進出、江戸の出版界を牛耳る地本問屋にジャンプアップする。時は10代将軍家治の時代、その政治の全権を委ねられたのが老中でありながら側用人を事実上兼任した田沼意次であった。商品経済の発展を背景に株仲間の結成を積極的に認めることで運上・冥加金の徴収、流通や物価のコントロールによる物資の確保、公金貸付の拡大、印旛沼干拓や蝦夷地開発、新産業育成など、進取の気性に富む田沼意次は果敢に挑戦した。重三郎はそんな時流に乗って、出版事業に果敢にチャレンジし、業界トップにのぼりつめる。
「黄表紙の隆盛と戯作者・ 山東京伝」「天明狂歌の時代と狂歌師・大田南畝」「狂歌師と浮世絵師のコラボで狂歌絵本を編み出す」「強力にプッシュした浮世絵師・喜多川歌麿」「吉原と持ちつ持たれつの重三郎」・・・・・・。
しかし時代は反転する。天明2年(1782)からの天明の大飢饉、浅間山の大噴火(天明3年)、連鎖的に起きた米騒動・・・・・・。頼みの綱の将軍・家治が急死(天明6年)、高まる政治不信のなか田沼意次が失脚する。そこに政敵・松平定信が台頭する。天明8年(1788)に意次は70歳で死去する。蔦屋重三郎39歳の時だ。出版統制は激しいものであった。
「田沼意次が成り上がり者として、先祖代々の幕臣からの嫉妬や反感を避けられなかったように、重三郎も出版界では成り上がり者であり、同じく嫉妬を買い、反感を持たれていたはずだ。だが、その人間性とたぐいまれなるビジネス力で売り上げを伸ばすことで、ネガティブな空気を封じ込めてしまったのではないか」と言う。その重三郎を危険視し、松平定信は出版取り締まり令によって処罰しダメージを与えたのだ。
閉塞した時代を変えようとした田沼意次と、江戸庶民大衆の中での息吹を創り出した蔦屋重三郎はなんと魅力的な人物であることか。面白かったのだと思う。