「白い雲のあわいに万軍を率いた竹千代君の姿が浮かんでいた」「まさか、おぬしも父上と同じか。雲のあわいに元康様の万軍の列が見えるのか」「質物に取られておる童のう。あれは今に天下を掌中に入れおるぞ」――天下統一を果たした徳川家康を、それを信じ支え続けた譜代、三河武将たちの戦いから鮮やかに描く。家康の壮大かつ苦難の人生を分岐点となった10の物語から浮かび上がらせる。
「まいまいつぶろ」「またうど」など、村木嵐さんの小説は、極めてわかりやすく面白い。それは緻密でありながら極力周辺をそぎ落とし対象に迫るからであろうが、本書も実に見事。天下を取る「いつかの朔日」の一筋の道に収斂させている。
10の物語はいずれもよく知られた家康(竹千代、元康)の人生の分岐点。「1 宝の子」――三河岡崎の城主・松平清康を阿部大蔵の嫡男・弥七郎が殺めた。清康公の嫡男仙千代(後の城主・松平広忠)を、大蔵はかくまった。「2 戻橋」――三河刈谷の於大は広忠に嫁ぎ竹千代を産む。しかし生家の刈谷が織田方についたため、今川家の庇護の下にあった松平は於大を離縁する。その裏には鳥居忠吉がいた。
「3 いつかの朔日」――今川と織田の間で翻弄される弱小の岡崎城の松平。「励め励め、織田さえ倒せば竹千代君を岡崎に返すと背後から槍で突かれつつ、今川の前に配されるのが、このところの松平家のいくさぶりだった」----。突然、松平広忠が殺され、竹千代は戻されるが、「三河を素通りに遠江へ拉し去られた」。鳥居忠吉は「儂もいつか朔日に、大きな国に入ってみせるわ。その国にはやがて日の本一の城が建つ」と思う。
「4 府中の鷹」――39歳のとき松平清康(20歳)のもとに嫁いだ於富(後の華陽院)は刈谷城主の正室だった。岡崎と刈谷は虎と猫、刈谷の側に拒む術はなかった。今川義元に召し出され、質となった竹千代の扶育を告げられる。その竹千代の小姓が鳥居忠吉の子・鶴之助だった。忠吉は「岡崎の者たちは、なぜここまで貶められねばならぬ」と空を仰ぐ。「5 禍の太刀)」――鳥居忠吉の配下である植村新六は清康、広忠を殺害した者の首をいずれも仕留めた。その太刀を五郎太に託す。
「6 馬盗人」――鳥居忠吉たち岡崎衆は今川家の盾として、尾張の織田家に向かわされていた。竹千代改め元康は大高城に向かっていた。そして桶狭間。「7 七分勝ち」――桶狭間から10年。30になり三河を平定、遠州一帯を見渡せる、三方原の丘に浜松城を建造した徳川家康。元亀3年(1572)、武田信玄が、天龍川を下って合戦の地は、三方ヶ原。鳥居四郎は敵の中央へ駆け込んだ。
「8 伊賀越え」――天正10年(1582)、本能寺の変。鳥居鶴之介改め元忠は京都にいた。一行の先鋒を務める酒井忠次は家康の嫡男・信康の死について辛い思いを抱えていた。信康を死に追いやった家康、忠次の苦衷が描かれ、心に迫ってくる。
「9 出奔」――小牧長久手の戦い。譜代筆頭の酒井忠次と外交を担った石川数正は口も効かない犬猿の仲。忠次は「小牧長久手ではあれほどの勝ちを収めたというのに、なにゆえ於義伊様を、人質に出さねばならぬ」と言い、数正は「人質ではない。秀吉公が望まれたゆえ、養子になられるのじゃ」と言う。なぜ数正は出奔したのかという歴史の謎。「儂は於義伊様を守るために、大阪へ参るほかはないと決意した」「於義伊様は父君に捨てられた」――家康、秀吉、親の心、譜代を持つ者・持たぬ者、あるべき臣下の道。数正の心中が切々と語られる。本書の白眉。
そして「10 雲のあわい」――関ヶ原。西軍を食い止めた伏見城の鳥居元忠。「それがしはこの伏見城を死に場所といたします」「命を知らざれば、以て君子たること無きなり」・・・・・・。「たった1800の城兵で、13日ものあいだ城を守ったと申すのか」「やりおった、元忠」・・・・・・。
家康の生涯の節目、事件の謎、命をかけて支える家臣の誠が、鮮やかに描かれる。