「歴史初心者からアカデミアまで」が副題。歴史を愛する人と、歴史学の間には、コミュニケーション・ギャップが生じていると懸念する。「アカデミズム史学の側の人間が求める『面白さ』とアマチュア歴史家が考える『面白さ』が往々にしてずれ、コミユニケーション・ギャップを生んでしまうことは、このような2つの要素を併せ持つ『歴史学』の宿命なのである。そもそも、話している本人が『科学』として話しているのか、『文学』として話しているかを明確にしないことがほとんどなので噛み合わなくなる」と言う。疑うことで発展してきた科学と、物語として叙述する文学の二面性が歴史学にあり、「歴史学」に面白さを感じる人と、文学としての「歴史」に面白さを感じる人は、多くの場合重ならない。そこで著者は、歴史を愛する人たちには、学会や論文のルール、「学会とはどのようなところか」などを丁寧に示す。一方で歴史学者には、歴史を愛する人の様々なアプローチ、「タイプ別・アマチュア歴史家のススメ(自費作家型、『発見』重視型、SNS・イベント活用)」を丁寧に示す。双方ともに真剣に取り組んでいる様子がわかるが、それゆえにギャップが必然的に生じるのだ。
著者は、それを架橋しようとする。「これまで歴史学は比較的学術コミュニケーションがなされできたと思われてきた。しかし受け手である歴史好き、そしてアマチュア歴史家の人たちの実態や思いを正しく理解する努力を怠ったまま、『簡単に理解できそうな知見』だけを伝えるならば、どう受け手に伝わるかという効果面に無理解であったように思われる」「歴史学という分野が親しみやすいと感じられることは良いが、ハードルが低く、誰でも参入できる学問であると軽視されたことが、アカデミズム史学とアマチュア歴史家の分断を招いた大きな原因であったように思われる」と指摘する。
著者は「いお倉」を起ち上げている。「一瞬笑えて後からジワジワ考えさせられる」――そんな歴史学の論文だけを掲載する新しい学術雑誌で、名前はラテン語で「冗談のような歴史」を意味する「Historia(ヒストリア)Iocularis (イオクラリス)」からと言う。
「架橋」するのは、この「笑い」。ベルクソンは「笑いは『無感動』からくる」「無感動は機械的なこわばりに発する。生きている人間が機械を思わせるようになればなるほどにおかしみが生ずるのだ」と言う。真剣であるが故に、他者から見ると「笑ってしまう」ことがある。歴史の面白いエピソードをことさら探して提示するのではない。
著者は明治の政治家・品川弥二郎を研究し、日本の政党政治の発展にとって「ヒール」的存在である彼に独特の感情を抱き、愛おしく感じたと言う。面白いのだ。そんな「笑い」で歴史学の新たな世界を開いていこうとする意欲が伝わってくる。