「『沖縄問題』の原点」が副題。沖縄と言えば、昭和の戦争と沖縄返還、米軍基地等がすぐ浮かぶが、「琉球処分は『沖縄問題』の原点なのである」と、「尚家文書」など、新たな貴重な琉球資料を駆使して、琉球処分の歴史的位置づけを精緻に示す。今日まで続く沖縄の苦悩が胸に迫ってくる。
琉球はもともと琉球王国として日中の両属国家であった。明治政府は1872年、琉球藩を設置、「処分官」を派遣、1879年には、警察・軍隊を動員して沖縄県として強制的に併合、1880年の強く抗議する清国との八重山分島交渉までを「琉球処分」とする。
なぜ、日本は琉球の抵抗や清の抗議を押し切って琉球を併合しようとしたのか。①日本政府は西洋近代の主権国家原則に基づき廃藩置県を断行、琉球の両属を否定して「琉球藩処分」とした②大久保利通らは、西洋の主権国家原則を受け入れることを文明への道とし、台湾出兵と北京での日清談判を経て、逆らう琉球は守旧として処分した③日本政府には、琉球を自国の領土として確保するという確固たる意志があった――などを指摘する。琉球王府は激しく抵抗する。自国を日本と異なる国家であり、日清両属の国家として維持しようとしたのだ。
「1875年は、琉球処分の過程で最も決定的な転換点だった。この年、日本政府は琉球を日本の一部とするため、一連の命令を発した。特に琉球王府が強く抵抗したのは、清への朝貢を断絶する命令と、琉球藩の藩制を改革する命令だった。2つの命令(琉球併合命令)は、琉球から国家としての地位を奪うことに直結したからだ」と言い、「琉球王府対松田道之の日琉交渉」「妥協か、抵抗か――琉球王府と亀川党」「琉球救国運動へ――清・西洋諸国への働きかけ」などを丁寧にたどる。
琉球が沖縄県として日本に組み込まれた後も、清に助けを求めるなどの救国運動が展開され、グラント米大統領の仲介、琉球分島案が登場。日本は統治のために旧官吏・士族を懐柔するため、旧慣温存政策を取ることになる。また当時の列強による清や日本へのアジア政策が複雑に絡み合っており、島内での組織的抵抗は日清戦争まで続いていく。
著者が「沖縄問題の原点」と言う意味は重いものだ。