「介護を担う子ども・若者の現実」が副題。「子どもの貧困」「児童虐待」等が問題となっているが、「家族の介護を行う18歳未満の子ども」のヤングケアラーが問題となっている。少子高齢化が進み、世帯人数が減少している歪みが子どもを圧迫する。病気・介護・精神的病に、とくに母親が陥った場合、祖父母や弟・妹の世話をヤングケアラーが担わざるを得ない。健やか成長と教育の機会が奪われ、相談する人もなく、遅刻・欠席のなか不登校・退学にまで追い込まれる。中学生の17人に1人が該当すると厚労省実態調査では出ている。
先進的に取り組んでいるイギリスの例、藤沢市、南魚沼市など日本の都市を調査して、その実態に迫っている。家庭内の大人が疲弊してくると、子どもは家庭内のケア分担に組み込まれていく。しかし「家事」というのは、食事・洗濯・掃除・買い物・銀行振り込み等やらねばならぬことがあまりにも多く、「介護」となると着替え・排泄・薬の準備等々が加わり、やるべきことが圧倒的に多い。教師にもいえず、「(学校の)ルールから逸脱」と逆に責められれば行き場はない。
イギリス等の現場を見ても、支援の方向性は3つ。「ヤングケアラーがケアについて安心して話せる相手と場所をつくること」「家庭でのケアの作業や責任を減らしていくこと」「ヤングケアラーについての社会の意識を高めていくこと」を指摘する。「学校の意識改革」「子ども食堂」「地域の行政サービスとの連結」等々、社会意識の高まりと具体事例に落とし込んでいく作業が不可欠だ。「ヤングケアラーたちは、家族を大切に思い家族をケアしたい気持ちと、自分の将来につながる勉強や仕事をしていくことの間で引き裂かれていた。他人事には思えなかった」「ケアを担った経験を持つ人の知見や理解が、多くの人が働きやすい環境作りに活かされ、社会もより強くなっていく、そんな仕組みを作っていけたらと願う」と語る。
日中戦争の発端となる盧溝橋事件(1937年7月7日)の前年である1936年、東京と西安で起こった2つのクーデター。二・二六事件と、奇妙な兵変である西安事件(12月12日)――。「その成否とは関係なく、奇しき偶然であるとはどうしても思えないのです。何やら人知の及ばざる偉大な力によって、すべてが精緻に必然に動いているような気がしてならない」と物語の中で語らせている。どこか、何か、少なくとも心象につながるものがあった。そのキーワードが「兵諫」。兵を挙げてでも主の過ちを諫めること、自らが主体に変わることではないのだ。
二・二六事件では死刑囚・村中孝次(元陸軍歩兵大尉)が蹶起の真相を面会に来た志津邦陽(陸軍歩兵大尉)に語る。「現今の日本は天皇親政に非ず。重臣、財閥、政党、それらに利用された一部の軍人等が国を捏ね上げようとしている。陛下が覚惺され、昭和維新を断行する」「俺達の使命は破壊だ。その後の建設は他の者の領分、俺達は捨石で良い」「陛下は必ずや貴様等の真意を悟られる。諸君らは叛乱に非ず、兵諫である」「永田鉄山は昨年8月、革新将校の急先鋒である相沢三郎中佐に惨殺された。・・・・・・相沢は永田閣下を斬っただけでなく、二・二六を惹き起こしてしまった」「永田が死んでも総力戦の思想は残る。・・・・・・日本は永田の遺産を継承する。重臣たちの殺戮は政党政治家を沈黙させ、ファシズムを結束し、名実ともに軍事国家となる」・・・・・・。
一方、西安近郊で国民政府の蒋介石に東北軍を率いる張学良の軍が叛旗を翻すクーデターが発生。蒋介石の命は絶望視され、「何が起きたのか」の真相を日本も日米の記者も必死に突き止めようとする。そこには蒋介石の掲げる「安内攘外策(共産軍を崩して国内統一の後に抗日政策をとる)」と、張学良は命を捨てても「内戦停止・一致抗日」の信念を貫く。蒋介石を拘束して安内穣外策の変更を求める。クーデターではなく兵諫だ。ただちに行われた軍事法廷では、張作霖、張学良の護衛官を務める陳一豆が「首謀者は自分が勝手にやったことで張学良ではない」と断固証言するのだ。蒋介石は兵諫を受容し、国共内戦を停止し、張学良は自ら罰を乞うが、信義に誓って蒋介石はその命を奪わない。二・二六の結果として陸軍が事実上の支配者となり、中国は内戦停止・一致抗日となる。日本と中国との全面戦争へと進む1936年の2つの事件を、小説ならではの筆致で鮮かに描く。
「文系だ」とか「理系だ」ということが時折り話題となるが、土木工学科出身で政治家の私としては、「土木(シビルエンジニアリング)」そのものが政治と親和性の強い「実学」という実感をもっている。人間臭いリアリズムの世界だ。本書を読むと、なるほど「明治時代、日本は近代化を急ぎ、1886年、東京大学が『帝国大学』と改称し、世界で初めて工学部を備えた総合大学となる。官営の公共事業を管轄していた工部省が廃止され、同省の人材育成機関であった工部大学校をもらい受けたことが発端で・・・・・・理工系教育の歴史において革新的と評価される出来事です」という。産業革命によって、それまで自然科学や文芸、歴史などをいっしょに扱っていた西欧が、自然科学を、そして社会学や経済学を次第に分化していった訳だが、明治の日本は急ぎ丸ごと取り入れ、さらに土木や法律など実学を奨励したというのだ。
「欧米諸国では受験のときに、文系・理系の2つではなく、人文、社会、理工医の3つ、あるいはそれ以上に分かれるのが普通」「日本語でいえば、『人文社会系』と『理工医系』という2つに分ける感覚。『人文社会』『理工医』に分ける区別は絶対ではない。‥‥‥2つの違う立場が存在するのではないか、と思う」・・・・・・。このように歴史を俯瞰しながら、「日本の近代化と文系・理系」「産業系と文系・理系」「ジェンダーと文系・理系」「研究の『学際化』と文系・理系」と章立てして語る。こういう角度での分析は先駆的で面白い。
「(明治初期)学者たちの間で学問分類についての議論は続いたが、『文』や『理』の用語は学校制度や官僚制度の改革を通じて少しずつ世に定着していく」「企業社会、産業界との関わりでも、どんな人材を労働市場が欲しがっているかが文系・理系の就職活動問題として提起される」「つい最近ではアカデミック・キャピタリズムと"文系不要"論争が起きる」「米国の情報産業、生命科学系や薬学系のベンチャー産業が大学の研究者や博士課程による起業であり、理工系の研究が"儲かる"分野と注目された(儲からない人文系)」・・・・・・。「文・理の分かれ方にはジェンダー問題が関わる。日本は進路選択の男女差が大きい国だ」「女性は言語的課題に優れ、男性は数量的課題に優れているといわれているが、近年の研究ではもっと複雑(空間認知能力は男性が高い)」「日本の大学進学率は文系も理系も男性が高いが、先進国の大半において女性の方が高い」「研究の世界では、学際化と分類概念の動揺が起きている」「複数の文化アプローチ――集合知としての学問」・・・・・・。
文系・理系という2つの文化は近づいて1つになるように思われるが、「2つの文化があること自体が問題なのではなく、両者の対話の乏しさこそが問われるべきでしょう」「違いを活かせてこそ、補い合うことができる。集合知が発揮できる、そう思うことから一歩が踏み出せるような気がする」と結ぶ。東日本大震災でもコロナでもSDGsでも、文・理それぞれの考え方が必要であり、まさに"集合知"が大切だろう。
「『価格』が示す停滞日本」が副題。ディズニーもダイソーも世界で最安値水準、初任給はスイスの3分の1、ビッグマックも外国では高い。ニセコは外国人が買って地価上昇率は日本トップクラスで居酒屋のラーメンは3000円。日本では高い港区の年平均所得1200万円はサンフランシスコでは「低所得」に当たる。ホテルも日本はきわめて安い・・・・・・。要するに、20年も「デフレ」が続き、物価も安いが賃金も低い、"デフレスパイル""デフレ基調"が続いているということだ。本書は、マクロ経済的な"需要不足""デフレ"から論ずるのではなく、現場の企業経営、消費者心理、とくに日本特有の企業経営、終身雇用などの日本的雇用形態、バブルに至るまでの成功体験、内向きの日本社会・・・・・・。多くの現場の根強い要因、合成の誤謬などを掘り下げる。現場の心理と行動から見た「デフレとその停滞からの脱却」だ。
「なぜこれほど安いのか――300円牛丼、1000円カット」「日本の物価はこの20年ほとんど変わらず、アメリカは2%ずつ上昇し、2000年の5割増し」「消費者の低価格志向は強い――賃金上がらず、非正規雇用の増大(生産者への還元を思うと適正価格にすべきだが、自分の所得水準を考えると値上げは困る)」「日本企業はもっと価格を上げるべきだが、消費者はわかってくれない。企業も安く売るが哲学になっている」「日本は解雇規制が厳しく、解雇できない。また再就職が難しい」「日本では価格を上げると消費者が逃げる。人件費を上げると商品の値上げをせざるを得なくなる」「アフターコロナ時代――低価格志向は強まる。製造者は"いいモノを作ったら高くても売れるだろう"と思うが甘い。だから強気でやっても撤退となる。マネージメントの基幹は価格戦略であり、客単価から商品開発しないといけない(田中くら寿司社長)」「日本だけが低賃金なのは、①労働生産性が停滞している②多様な賃金交渉のメカニズムがない」「また逆に、日本の生産性が低いのは、価格付けの『安さ』にある」「平均賃金が上がらないのは、中高年男性の賃金が下がった押し下げにもある」「日本は終身雇用のため、初任給が抑制されている。今の世界の状況とは全く違う。それが人材獲得のネックとなっている」「一括採用の"メンバーシップ型"ではなく最適人材配置の"ジョブ型"雇用への移行が開始されているが、役割をはっきりさせて評価・処遇を連動させる"ロール型雇用(役割型)"も一考を」「個人が努力して得る"スキルアップ"に対する昇格、昇給をする時に来ている」「キャリアアップして"賃金は上がるもの"を当たり前にしよう」「買われるニッポン――アジア国籍になる日本の町工場」「人材が流出し、お家芸"アニメ"も崩れる(給料が安すぎ)」「水産業も世界の消費量急増で"買い負ける"日本」・・・・・・。
「支出を減らすのではなく、収入を増やす努力にシフトしよう」「日本の"安さ"は、いずれ日本に返ってくる」「労働市場の見直しで安いニッポン脱却を」と訴える。
麻薬密売に臓器密売が加わり、闇のなかで凄まじい殺人が繰り返される。世界を舞台として展開される凄絶な暴力の叙事詩。資本主義の闇の底でうごめく凶悪犯罪と、生きた心臓を神に捧げるという血塗られたアステカ神話が交錯する。あまりの恐怖と欲望、ド肝を抜く獣性がむき出しにされ、こんな世界があり得るのかと、文明の底に叩き落されるような感覚に襲われる。どこに連れていかれるのか全く不明、圧倒的な迫力小説。
アステカの狂信者の祖母に、滅びた王国の血と神話を通して育てられ、カルテルに殺された父の復讐を誓うメキシコ人のバルミロ。一方で、メキシコの町から川崎に逃れてきた母と暴力団員の父の間に生まれたコシモ。殺人事件を起こし少年院に入ったコシモだが、出院後、雇われた工房を通じて二人は出会う。バルミロは、カルテルに君臨した麻薬密売人だが、日本人の臓器ブローカーとの出会いによって国際的な臓器売買ビジネスを始めていく。そして、裏社会の凶悪犯罪が、"子どもの心臓をくり抜く"という陰の恐るべき世界に行き着いていく。凄まじい凄惨な殺人が息つく暇もなく描かれていく。