話題を呼んだ「アーモンド」の著者だ。本書のタイトルは当初、「普通の人」だったが「1988年生まれ」というタイトルで賞を受け、今回「三十の反撃」として刊行された。まさにそのタイトルどおり、1988年生まれで30歳になっても正規社員でもないインターンのままの女性・キム・ジヘ。日本でいう就職氷河期がこの世代にあたった。特に取柄があるわけでも、優れているわけでもない「普通の人」のキム・ジヘ。「どんな大人になりたい」「今の時間をどのように記憶し、刻んでいくか」を深く考える訳ではないが、職場でも言いたいことも言えず鬱積した不満・不安を抱え、かつては同級生にひどい仕打ちを受けながら"黙って我慢"した心の傷を引きずっている「普通の人」でもある。しかしそれは韓国社会にはびこるニセモノたちや、弱者を巧妙に搾取する構造的矛盾という"巨大な壁"に、"跳ね返され"たり、"沈黙"を余儀なくされている姿でもある。
そのキム・ジヘが、新しくインターンとして入ってきた男性・ギュオクの"反撃の行動""いたずら"に触発されて、小さな「反撃」に出る。小さな"いたずら"のような「反撃」を行うこと、正しいこと、真実を言うことができるという「小さな勇気の反撃」だ。しかし、それが自分自身に変革をもたらし、成長していくことになる。我慢し、押し潰されても「沈黙」ではなく、「小さな反撃」に踏み出す勇気が、自分の人生を自覚的で確かなものにしていくのだ。沈黙ではなく行動、一人ではなく仲間がいること――そのことを駆け込み寺"ならぬ"仮空の人"のジョンジンさんが暗示する。
他人の明日の未来が見える「先行上映」という不思議な力をもつ中学校の国語教師・檀千郷。彼に迫り来る出来事・事件と、女子生徒・布藤鞠子の書く小説が交錯する。小説からロシアンブルとアメショーと名乗るネコジゴハンターが抜け出す。あたかも照明とガラスを使って別の場所の存在を観客の前に映し出すペッパーズ・ゴーストのよう。現実とバーチャルが入れ乱れるなか、"テロ事件"に彼等が巻き込まれていく。
事件はまず、5年前に起きた「カフェ・ダイヤモンド事件」――。世田谷の洋風創作料理店「カフェ・ダイヤモンド」に5人の猟銃を持った男が、客やスタッフを人質にとって立てこもり、警察が突入。29人が亡くなり、犯人も自爆。テレビの人気のコメンテーター・マイク育馬の軽率な発言が自爆に追い込んだ最後の一押しとなった。被害者たちが秘かにサークルをつくる。庭野、野口勇人、成海彪子らは、警察やマイク育馬などへの復讐を図ろうとするが、その心の奥底には「人生そのものへの絶望」「生きる意味の喪失」「死にたい」「自暴自棄」が共有されていた。そして「やすらぎ胃腸クリニック」「後楽園球場」のテロ事件を起こす。ニーチェの「この世界の嘆きは深い、喜びのほうが、深い悩みよりも深い。嘆きが言う。『消えろ!』と。だがすべての喜びが永遠をほしがっている」との「ツァラトゥストラ」が通底音として全編に響く。
事件に巻き込まれた檀は、不思議な「先行上映」の力で、これらを何とかしのいでいく。そして最後の展開が・・・・・・。
「草の花」「廃市」「海市」「北の島」など、「死」「河」「海」などを孕み、心層の暗部を描き出した福永武彦の1959年の作品。10年も昔の夏、大学生の「僕」は「卒業論文を書くためにその町の旧家で過ごした」。そして今、その水の町、運河の町が火事になって町並があらかた焼失したことを新聞記事で知る。「あの町もとうとう廃市となって荒れ果ててしまったのだろうか」と、もともと廃墟のような寂しさのある、ひっそりとした田舎町を想い、下宿先の旧家のこと、美しき姉妹(郁代さん、安子さん)のこと、そして姉の夫・直之さんの心中・自殺という衝撃的事件の記憶が蘇える。
「安ちゃん、あなたは馬鹿よ。秀なんかにあの人を取られて・・・・・・直之はあなたが好きだったのよ」「お姉さんは間違っているのよ。兄さんが好きだったのはあなたで、わたしじゃないのよ」「あなたが、好きだったのは、一体誰だったのです?」・・・・・・。「この滅びたような田舎町」「運河がはりめぐらされた美しい水の町、しかし閉ざされた死んだような町」で起きた愛、誤解、邪推、その増幅・・・・・・。ゆったりとした時間のなか、厚みのある静寂と、人心の揺らぎを、自然の悠久さのなかに融け込む生命体のように描き出していく。中江有里さんの「万葉と沙羅」に突き動かされて読んだ。
中学で不登校になり、家に引きこもっていた一橋沙羅。「週に1度くらいなら通学できるかも」と、一年遅れで通信制の高校に入学。そこで幼馴染の近藤万葉に再会する。読書好きの万葉に読書の楽しさを教えられ、次第に本を読むようになり、それが会話の窓を開けることになっていく。
一方、大学に進学した万葉は、叔父さんの古本屋を手伝っていたが、将来に迷いを感じていた。そんなある日、再婚すると同時に海外勤務となってドイツに居る父から、「叔父さん」の行方がわからないとの電話が入る。そして九州へ向かう。
本を通して人と交わり、会話ができる。自分と出会い、自分の世界を広げていく。沙羅も万葉も迷いつつも前に進み、成長していく。そんな姿が描かれていく。中江さんの優しい世界だ。新美南吉の「ごん狐」、宮本輝の「青が散る」、宮沢賢治「やまなし」、伊藤計劃「ハーモニー」、福永武彦の「草の花」「廃市」、北原白秋の歌「この道」、遠藤周作の「砂の城」など、その都度あげられる本は興味深い。
歴史作家・河合敦氏の「ねね」を扱った小論「秀吉の正室として、留守・交渉まで行い信長、家康も一目置く」を公明新聞で読み、今年発刊された本書を手にとった。道鏡、平将門、平清盛、北条政子、足利尊氏、髙師直、日野富子、斎藤道三、松永久秀、明智光秀、小早川秀秋、由井正雪、徳川綱吉、吉良上野介、田沼意次、井伊直弼、大久保利通など"悪人"とされてきた24人をあげ、「本当に悪人だったのか」を分析する。いずれも「裏切り者」「卑怯者」「悪人」のレッテルを貼られた有名人だが、本当はどうか。
「歴史は勝者によってつくられる」「一次史料がない」「後に、歌舞伎や浄瑠璃などでドラマチックに仕立てあげられる」「当時の事情を調べると、そういう役目を担わされた人物でもある」・・・・・・。意外な真実が近年の歴史研究で明らかになり、「逆転無罪」と断言できる者も数多くある。「完全無罪としたい」というのが、例えば「北条政子(源頼朝を尻に敷き、実家のために息子を殺した嫉妬深い女―→むしろ悪いのは浮気性の頼朝であり、息子の頼家を殺したのも政子ではない)」「徳川綱吉(生類憐みの令を発し、違反した人間を問答無用で厳罰に処した暗愚な将軍―→生類憐みの令は戦国の野蛮さをなくし、忠孝・礼儀という儒教道徳をもつ人々の意識改革を促す目的で出されたものであり、良い内容であるうえ、処罪者は少なかった。巷説は嘘ばかり)」「田沼意次(賄賂政治を行い社会全体の退廃を増長させた男―→賄賂の授受は政敵の松平定信派の作り話にすぎず、経済感覚にすぐれた大胆な政治家だった)」である。
足尾銅山の鉱毒が環境破壊を起こしたことで、古河市兵衛は糾弾されるが、「鉱毒問題では改善策を講じており、市兵衛のおかげで鉱業が発展し莫大な国益をもたらしたから無罪」としている。小早川秀秋については「関ヶ原での寝返りは敵味方とも承知のうえだった」とし、井伊直弼についても「安政の大獄は側近の"ウソ報告"がきっかけだった」とする。石川五右衛門などは、一次史料でその名を確認することはできておらず、その名が登場するのは死後のこと。浄瑠璃や歌舞伎で格好の題材となり、尾ひれがついて天下の大泥棒・石川五右衛門ができあがったとしている。