「東大生と語り尽くした6時間」「『二十歳の君へ』立花ゼミ特別講義を再編集しました」「2010年6月に文藝春秋で立花ゼミ生に向けて行った講義録」というもの。当時も、今もきわめて刺激的、そして根源的。知的レベルが異次元。生死、脳、サイエンス、デカルト、世界史、地政学、宗教・・・・・・森羅万象についてトップの人物に会い、学び、研究し、「自分で考える」ことに徹している。凄い。
「死へ向かう身体(腎臓では体内生産の老廃物は全部出すが水分は出さない)」「三島由紀夫の死の凄惨な現場(公安の写真、公安組織のとことんまでのニヒリズムの空恐ろしさ)(伝えられないリアリティの細部)」「脳内コペルニクス的転回(天動説を一掃せよ、極座標中心思考からx軸、y軸のデカルト的座標中心思考に切りかえよ)」「臨死体験こそ死後の世界の存在を否定するものだと考えるようになった。しかし、死に対する恐怖がなくなっていった。死の最後の一瞬を飛び越えやすくするものとして、臨死体験を構成する諸現象を自然に体験するメカニズムが人間の生得の心理・生理機構の一環として組み込まれているのではないか、と考えるに至った」「唯我主義も、実存主義の主張も僕にはナンセンス。実存主義者が何万人死のうと、すべて世はこともなし、なのだ」「猿人、原人、クロマニヨン人の脳容量とホムンクルス像型脳機能マッピング」など、ズバッと語る。
「本を読みすぎたと思う。この世にある本の相当部分は、頭の悪い人が書いた頭の悪い文章の羅列で、読む価値がない本です」「この世のあらゆる問題の正解はひとつではない。大学入試までは、すべての正解がある問題に取り組めが良かったが、重要な問題ほどよく分からないものだ。我々はどう暗中模索して解を見つけていけばいいのか。第一にやるべきはわけのわからなさの整理(ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」では「およそ語りうることはすべて明晰に語りうる。しかし語りえぬことについては沈黙せねばならない」という)」「事実は小説よりも奇なり(小説はくだらないと思うようになって読むのをやめた)」「種の起源。現在も進化している」「デカルトの根底は『明証性の原理』だが、デカルトの時代はあらゆる意味で終わった。19世紀までだ。量子力学とアインシュタインの相対性理論で20世紀知的世界像は始まった」「地理学は"人文地理"という特殊な地理を勉強してきたが、本来は"地政学"だった」「リアルな歴史――あの時代の日本の学生は"左翼主義"だったが、20才にかけてヨーロッパに渡って反核平和運動を見て、それから離れることができた」「世界情勢は複雑怪奇、真相は深層に(ゾルゲと南進情報とソ連のシベリア鉄道を使っての"モスクワ攻防戦""西部戦線")」・・・・・・。思索のレベルが圧倒的に違う。
佐渡に流刑された世阿弥は、何を思い、いかに暮らしたか。観阿弥を父とした世阿弥(1363年~1443年?)は、足利義満に庇護されて申学を深化、「風姿花伝」を著す。次の将軍・義持は申学より田楽を愛し、その次の義教は極端な弾圧に走り、1434年には世阿弥を佐渡に流刑とする。遠き北海の佐渡の島に、72歳になる老いたる世阿弥を流したのだ。しかも、座のすべてを任せ、頼んだ愛息の元雅はそれに先立つ1432年、伊勢で客死している。老いた佐渡の世阿弥は何を考えたのか。その至った境地を描き出す。世阿弥の世界を描くだけに、本書をいつの間にか声を出して読んでいた。そんな傑作だ。
日蓮、順徳院、そして世阿弥。「世阿弥の芸の力が、人心を惑わし、室町殿の政を損ずると危惧したのではあるまいか」という。都を出て、若狭小浜の港から佐渡へ。大田の浦や万福寺、八幡、泉へ。世阿弥はその時々、その土地土地を舞台に小謡を書き溜めていく。世阿弥を迎える佐渡の人々の心は暖かく、尊崇され慕われる。都から世阿弥に随伴する観世座の笛方・六左衛門、本間家家臣・溝口朔之進(得度して了隠)、佐渡の無邪気な海人の倅・たつ丸、おとよ、峯舟住職・・・・・・。そして佐渡の光、深いにおいの潮風、銀の浜、山川草木の息遣い、澄みわたる月、波もまた生まれよう時の盛り上がりと溜めが調べとなった。「この70を超える老翁の、これからの生き様に面白さを覚えている己がいた」とその境地を描く。世阿弥は都を思いつつ島で死した順徳院の無念の心を追い、客死した息子・元雅を思い、西行に思いをはせるのであった。そして、この佐渡の地で咲く「西行桜」を島の者と共に演ずるのだ。
「離見の見(花鏡)」「態と態との空隙こそ大事とする『せぬ所』」「一心わが万象、ただあるということ」「己の老木にまことの花が咲いてから(都に帰るも帰らぬも)」「私はこの佐渡で己のまことの花を咲かせとうございます」「世阿弥の花は都でだけの徒花(あだはな)か真の能の花か、翁となった己を見ているのでございます」「小さき一点に十方世界が含まれる一即多、多即一」・・・・・・。宇宙と我、生と死のあわい、幽玄の世界――喧騒の現代では深められない生命哲学の世界が、世阿弥の深き感知と境地を重厚に描くことによって開示され迫ってくる。
副題は「大学・スポーツ・企業の社会学」。「体育会系の学生は就職活動で本当に有利なのか」「『体育会系神話』は、どのように生まれ、どのように変遷してきているのか」――。生成過程から今日に至るまでの状況を統計データから観察、分析する。
「体育会系神話」は日本の近代化、富国強兵の「国民の健康を保全し、体力を増進する、有用な身体」の方針を起源とする。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」――日本近代の近代化初期(大正時代)の社会状況から生まれ、ピークは1980年代から1990年代初頭だ。その条件は、「威信(ランク)が高い大学」の「伝統的チームスポーツ部(野球・ラグビーなど)」に属する「男性」という類型が抽出される。それが今、「大学生の増加(エリート体育会系とノンエリート体育会系の分化)」「実業団・企業スポーツが保持できなくなった経済状況」「(優秀な)女性の社会進出」「スポーツ自体の多様化」など、社会の激変のなかで変容をもたらしている。「諦めない」「打たれ強い」「人当たりが良い」「チームワークを大切にする」「協調性がある」などの特徴が、近未来の企業等の"人材要件"に直結するとは限らないのだ。「体育会系神話」の揺らぎや変容だ。日本の大企業型雇用慣行のメンバーシップ型に対し、ジョブ型が加わってきているし、メンバーシップ型採用では大学院が重視されてこなかったということもある。
日本の大企業型雇用慣行は、学習内容よりも大学威信(ランキング)に固執する世界では特異な教育慣行(いわゆる学歴主義)があったという。そこで「大学でスポーツをすることは必ずしも学生の成長を促すとは限らない。大学で単にスポーツ部に所属することが重要ではなく、そのスポーツ(クラブ)の活動にどう取り組むかが重要なのだ」と指摘し、「コロナ禍で、大学スポーツ、教育とキャリア形成に対するスポーツの意義を見つめ直してほしい」と、大学スポーツに直接携わった思いを込めて語っている。
話題を呼んだ「元彼の遺言状」の続編。今回の主人公はあのお金大好きで高飛車な弁護士・剣持麗子ではなく、同僚の弁護士で後輩の美馬玉子。仕事でも婚活でも自分のポジションが定まらず"ぶりっ子"をしたり、おたおたもする。父母は自殺し、シマばあちゃんと暮らしていた。
そんな山田川村・津々井法律事務所に所属する二人のコンビに、「彼女が転職するたびに企業が必ず倒産する。次はウチが潰れるのではないかと噂になっている」という奇妙な通報がある。有名なアパレル企業のゴーラム商会だ。その「会社を倒産に導く女」は経理課の近藤まりあという。そして、確かに小野山メタル、マルサチ木材、高砂フルーツが倒産し、今またゴーラム商会が危機にある。そしてゴーラム商会のリストラ勧告の通称"首切り部屋"で本当に首切り事件が発生する。自殺か他殺か・・・・・・。さらにその奥には闇の組織が蠢いているようだ。
若き女性弁護士の溌剌、活発な才知とリズムが心地よい。殺「人」ならぬ謎の連続殺「法人」事件だ。
「欠けぬ望月の家に生まれ、やがて日輪のごとく朝廷を照らし続けることとなった稀代の国母、藤原道長の娘・彰子(988年~1074年)」「藤原道長の娘にして、一条天皇の后。一条天皇と結ばれてのち、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇と6代も見届けてきた彰子」「道長の思惑のまま12歳で一条天皇の后となった彰子は、優しく包んでくれる一条天皇の心を抱きしめ、87歳で没するまで天皇と一族を支え続けた」・・・・・・。父に利用されるだけであった内気な少女が、一族の闇、怨念、陰謀が跋扈する宮廷でいかにして生き抜いてきたか。いかに賢い女性であったかが活写される。
想像を絶する宮廷内の権謀術数、次々に起きる病魔による死、その怨念を晴らそうとする加持祈禱、そして陰謀によって起きる火災・・・・・・。凄まじい。「幼い敦康を胸に抱いた14歳のあの瞬間から、こうして30余年を経て自ら見出したのが、この菩薩道であるといってよかった。・・・・・・もとから派手な行ないを避ける性分である。史上稀に見る権威と繁栄を勝ち得た国母としては、慎ましいとさえいえる振る舞いをしてきたのだ」「人事こそ政治の根底である。彰子は国母として、それに影響を与える存在であることを公然と示したのだった。12歳から後宮で学び、29歳となって国母としての立場を築いた彰子の、まさに面目躍如である。生来の慎重な性格も幸いし、諸卿から白眼視されるようなことも、表立ってはなかった」「定子が遺した3人の子どもと一条天皇の輪に、自分を入れてもらえるという幸福である。懐妊してのちも、敦康を守ろうという気持ちに一点の曇りもなかった」「道長はいよいよ苛立ちを募らせていた。まだ彰子は帝の子を授からないのか」・・・・・・。
中宮・定子に仕えた清少納言。彰子は紫式部によく支えられた。彰子と紫式部との心のやりとりが面白い。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」――栄華に酔いしれる父・道長や夫に照らされる"月"であった彰子が苦難・葛藤のなかで自ら光を放ちゆく"国母"となる生涯を鮮やかに描き出す。