「認知科学で読み解く『こころ』の闇」が副題。認知科学の「プロジェクション」の概念。「いま、そこにない」ことを想像して、「いま、ここにある」現実へ投射する。自分の内的世界を外部の事物に重ね合わせるこころの働きである。著者の前著「『推し』の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か」では、ファン活動、科学研究、宗教、芸術、文化など、モノを介して私たちの人生や生活をより豊かに潤し、生きる意味を見出すような、ポジティブな面を示したが、本書はネガティブな問題を生じさせる面を解析する。霊感商法、オレオレ詐欺、陰謀論、事故物件、風評被害、ジェンダー規範など、他者によってこころを操られたり、また「女性とは、こうあるべき」など、自分自身を無意識のうちに縛ったりするネガティブな問題を生じさせる「闇」を示している。実際には起きていないことや、存在しないものを想像して、現実に投射できるが故に生まれる「イマジナリー・ネガティブ」を認知科学の視点で考察する。
「プロジェクションとは、作り出した意味、表象を世界に投射し、物理世界と心理世界を重ね合わせる心の働きを指している」(2015年、認知科学の鈴木宏昭教授によって提唱された概念)だが、プロジェクションのタイプは、①通常の投射(世界を見たままに捉える) ②異投射(「いま、そこにない」ことを「いま、ここにある」ものに映し出す) ③虚投射(見えないけれど、確かにそこにある)――の3つある。現実生活と非日常を自分なりの良いバランスで楽しんでいるか。「推し疲れ」や「ギャンブル依存症」などバランスが取れなくなったプロジェクションで、主体のコントロール不能で暴走するプロジェクションとなるか。炎上商法でも成功と失敗がある(失敗が多いが)。面白いのは「好きになることの逆は、嫌いになることではなく、無関心である」で、炎上商法は最近だが、政治の世界では昔から「悪名は無名に勝る」と言われている。
本書は、プロジェクションが、「他者から操作されている」ことと、自分自身を無意識のうちに縛っている「無意識のプロジェクションがあなたを悩ませる」の2つの面から詳述する。霊感商法でも、「宗教のような装い」であることを示し、「健全な宗教は安心感を提供するのに対し、破壊的カルトは、個人の自由を奪い、個人を縛る」(マインド・コントロール研究の社会心理学者・西田公昭)を紹介している。宗教は、「信」の強弱の世界であり、プロジェクションの異投射や虚投射と深く関わる。
また、「1969年のアポロ月面着陸は捏造である。真空の宇宙空間では、風は吹かないはずなのに、月面上でアメリカ国旗が揺れているのはおかしい」についても、「旗は風で揺れる」と思い込み、「手で揺れる、ものが当たって揺れる」ことを見ない。人間の対称性推論による因果の誤りから陰謀論にはまることを指摘する。大事なことは「熟慮性を高める」ことだと言う。SNS時代では特に大事なことだろう。他者にプロジェクションを操作されることで奪われてしまった本来の個人の世界、その「世界を取り戻すための『デ・プロジェクション」が大事で、当事者自身では無理としたら、周囲の人や家族の支援はとても重要だと言う。
「自分自身を縛る無意識のプロジェクション」は、「ジェンダーにまつわる『思いこみ』」「事故物件への忌避感」「風評被害と『思いこみ』」「気にしすぎ人見知り」など身近に多い。多いところか、これが日常で、幸不幸のかなり部分を占める。これを脱するには「思いこみ」を脱し自分を解放する「メタ・プロジェクション」、自分がしているプロジェクションを俯瞰して、どのような表象が何に投射されているかを知る。「着ぐるみの自分を鏡に映してみること」と言う。
私たちの悩み――「いま、そこにない」ことを想像できるがゆえ生み出されるプロジェクションというこころの働きが、人間を深く悩ませている。だから「プロジェクションに取り込まれない」が重要となる。箒木蓬生の「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」、居心地が悪くても解決できない宙ぶらりんの状態に耐え、現実について考える苦しさを回避しないことが大切になる。世界に意味を与えるプロジェクションというこころの働きを、価値創造に向け得るかどうか。重要な分析が提起されている。
昭和初期の金沢。花街に暮らし、生き抜く芸妓たちの物語。「梅ふく」の女将・時江。物語の中心となるのは、朱鷺とトンボの仲の良い2人。共に年齢は20歳ほど。古株は君香32歳で、26歳の桃丸がいて、芸妓4人。振袖さんの琴菊、見習いの「たあぼ」2人、置屋の運営・管理をする稲、そして通い女中のフミの総勢10人の所帯。朱鷺は7歳の頃に売られてきたし、トンボはロシアの血が混じり橋の下に捨てられていたのを、女将の時江が拾い上げ育ててきた。花街の女は皆、辛い過去を心に秘めて生きてきた。日常のふとしたことから噴き上げる出来事、事件を、きっちり7話連続仕立てで、見事に描き切っている。
男女の交わり、悲恋、嫉妬、愛憎、騙しと騙され、意地・・・・・・。社交の中心であった花街の風情が穏やかに、そして鮮やかに、きっぱりと表現され、引き込まれた。
「金沢には、金沢城を真ん中に、南に犀川、北に浅野川が流れ、犀川はおとこ川、浅野川はをんな川と呼ばれとるんや」「ふたつの川は一度も相容れぬまま海に流れつくが。無常というかせんないというか、まさに男と女そのものややろ----」「ただ、何をするにしても、その時は覚悟を決めんとな。覚悟がないと、道に迷ってしまうさけ」「あたし、覚悟って考えて考えた末に決まるもんやって思っとったけど、意外とあっさりしとるんやな。自分でもびっくりやった」「巻き込まれたんやない。トンボが覚悟を決めた時、あたしも決まったが。言っておくけど、それはトンボのためやない、あたしが決めたあたしの覚悟やさけ」・・・・・・。
思うに任せぬ境遇のなかで、必死に、精一杯生きる女たちの姿、涙を隠し、きっぱりと肚を決める女たちのしなやかで潔い姿、互いを思いやる姿が心に迫る。
「西洋と東洋から考える からだと病気と健康のこと」が副題。西洋医学の専門家として生命科学者で元・大阪大学大学院教授の仲野徹先生と、東洋医学の専門家として臨床家・鍼灸師の若林理砂先生のニ人が、「不調と病気との付き合い方」について徹底問答。西洋医学と東洋医学は何が違うのか、共通項はあるのか、病気とは何か、治るとは何かについて忌憚なく話している珍しい本。
病気になると通常、私たちは病院に行き、西洋医学のお世話になる。私は若い頃から鍼灸、指圧に接し、漢方薬も常用している。しかし正面から「西洋と東洋」を専門家が率直に語ることは、大変面白く有益であった。
「科学としての西洋医学、哲学としての東洋医学」をまず語る。「東洋医学が生き残っている理由」「西洋医学もはじめは怪しかった」「漢方薬は発明者不明」――。「反ワクチン」や「プラセボ効果」もあるが、「一般の人にもある程度の医学リテラシーは絶対に必要」と言う。
東洋医学は、「人間の生命活動は気・血・津液(しんえき、水=すい)の3つの要素から成り立っている」「からだの捉え方の基本となっているのが陰陽五行論」と言う。そして経穴(けいしつ、ツボ)と経絡(気が通るルート)。「ツボの位置は人によって違う(若林)」「東洋医学と対照的に、西洋医学は細部へと向かっていたが、最近は『多臓器連関』がトレンドになっている(仲野)」と言う。
「風邪はウィルスに感染することによって起こされる上気道の炎症。南極には風邪のウィルスがいないので風邪はひかない」「風寒邪の場合はからだを温める薬を使うのが基本。葛根湯や麻黄湯」「風邪に効く薬もワクチンもない」「健康神話はけっこう危ない(全くどこも痛くなくて、毎日快活に過ごせることが完璧な健康みたいな神話)」・・・・・・。
「治療篇――効きゃあいい、治りゃあいい」――。「科学で解明できていない鍼の効果」。
「摩訶不思議な漢方薬の世界」――「麻黄湯はインフルエンザの初期にてきめんに効く」「即効性のある葛根湯や鼻水が止まる小青龍湯」。西洋の薬についても、「西洋でも薬は効きゃあよかった」「薬理学の知識爆発」等が述べられる。そして最後に、「未来篇――医学のこれからどうなる?」についてがん免疫療法やAI診断など広範に語られる。
「わからんな!」など連発の対談で、不思議にも気が楽になった。
「歴史初心者からアカデミアまで」が副題。歴史を愛する人と、歴史学の間には、コミュニケーション・ギャップが生じていると懸念する。「アカデミズム史学の側の人間が求める『面白さ』とアマチュア歴史家が考える『面白さ』が往々にしてずれ、コミユニケーション・ギャップを生んでしまうことは、このような2つの要素を併せ持つ『歴史学』の宿命なのである。そもそも、話している本人が『科学』として話しているのか、『文学』として話しているかを明確にしないことがほとんどなので噛み合わなくなる」と言う。疑うことで発展してきた科学と、物語として叙述する文学の二面性が歴史学にあり、「歴史学」に面白さを感じる人と、文学としての「歴史」に面白さを感じる人は、多くの場合重ならない。そこで著者は、歴史を愛する人たちには、学会や論文のルール、「学会とはどのようなところか」などを丁寧に示す。一方で歴史学者には、歴史を愛する人の様々なアプローチ、「タイプ別・アマチュア歴史家のススメ(自費作家型、『発見』重視型、SNS・イベント活用)」を丁寧に示す。双方ともに真剣に取り組んでいる様子がわかるが、それゆえにギャップが必然的に生じるのだ。
著者は、それを架橋しようとする。「これまで歴史学は比較的学術コミュニケーションがなされできたと思われてきた。しかし受け手である歴史好き、そしてアマチュア歴史家の人たちの実態や思いを正しく理解する努力を怠ったまま、『簡単に理解できそうな知見』だけを伝えるならば、どう受け手に伝わるかという効果面に無理解であったように思われる」「歴史学という分野が親しみやすいと感じられることは良いが、ハードルが低く、誰でも参入できる学問であると軽視されたことが、アカデミズム史学とアマチュア歴史家の分断を招いた大きな原因であったように思われる」と指摘する。
著者は「いお倉」を起ち上げている。「一瞬笑えて後からジワジワ考えさせられる」――そんな歴史学の論文だけを掲載する新しい学術雑誌で、名前はラテン語で「冗談のような歴史」を意味する「Historia(ヒストリア)Iocularis (イオクラリス)」からと言う。
「架橋」するのは、この「笑い」。ベルクソンは「笑いは『無感動』からくる」「無感動は機械的なこわばりに発する。生きている人間が機械を思わせるようになればなるほどにおかしみが生ずるのだ」と言う。真剣であるが故に、他者から見ると「笑ってしまう」ことがある。歴史の面白いエピソードをことさら探して提示するのではない。
著者は明治の政治家・品川弥二郎を研究し、日本の政党政治の発展にとって「ヒール」的存在である彼に独特の感情を抱き、愛おしく感じたと言う。面白いのだ。そんな「笑い」で歴史学の新たな世界を開いていこうとする意欲が伝わってくる。
「賢治ことばの源泉」が副題。宮沢賢治研究の王敏法政大学名誉教授。「宮沢賢治を研究して40年ーー出会いの衝撃は、今も生きるエネルギー!」と帯にあるように、宮沢賢治研究、日中比較文化研究への熱量はすごい。これまで何回もお会いしたが、その熱量と誠実さに感動を覚えてきた。「きょうも、そしてこれからも、私は澎湃として涌く問題意識に向かうでしょう。なぜなら、宮沢賢治作品に触れることによって、日中からアジア文化圏、漢字文化圏という大世界へ邁進することができたからです。・・・・・・謝々!賢治、いつまでも、です」と言う。
宮沢賢治は、「雨ニモマケズ」「銀河鉄道の夜」など、100点あまりの寓話や童話と1000余りの詩や文章を書いた。「雨ニモマケズ」「デクノボー」など心を激しく叩く宮沢賢治独特の言葉の底には、自然への畏敬、民への共感、究極の誠実さという深き哲学性、精神性がある。
さらにその奥を掘り下げると、繰り返し襲う三陸大地震・津波、冷害等を引き起こす厳しい自然の脅威、さりながら美しい動植物との共生、広がる宇宙、もたらされる漢字文化、西域(シルクロード)に翔ける夢が賢治にはあったと言う。本書で「東日本大震災と『雨ニモマケズ』」「言葉の魔術師・賢治と漢字」「賢治と『西域(シルクロード)』と禹王」を語っている。王敏さんでなければできない卓越した日中文化関係論が宮沢賢治を語るなかで展開される。さらに「禹王への尊敬と信仰は、漢字文化圏の日本においても、中国と同様に存在したことに気づいた」「人々が禹王を『治水神』として祀り、信仰し続けてきたことがわかった」と言い、神奈川県開成町の石碑を始め、全国各地での共同調査が行われ、「禹王サミット」まで作り上げたと言う。すごいことだと感嘆する。
「孔子のモデルは『君子』、賢治のそれは『デクノボー』。孔子は『修身斉家治国平天下』をエリートに教えたが、宮沢賢治は政治的な志向を抱かず、『ホメラレモセズ』の脱俗の姿勢をよしとし、対象は地位や肩書のない農民などの不特定多数」「荘子や老子の言葉が、賢治の『デクノボー』に共通する生き方を示しているように思われる」と言う。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と宮沢賢治は言い、人生そのものを幸福のための「求道」と見立てた。王敏さんは「生きることの原点を求めて問いかけ、その解答に全身全霊を導入した賢治の姿勢に啓示を受けた」「賢治を文学者より哲学者と言ったのは、賢治に学び、文学という枠を超えて、社会科学の範囲における人間学を探求したかった」と言っている。
宮沢賢治の詩に頻繁に登場する「微笑み」や「笑い」――。災害をはじめ苦難にあっても、微笑みを絶やすことなく、「イツモシズカニワラッテイル」日本人。「微笑みの文化」について、エドワード・S・モース、ラフカディオ・ハーン、エドウィン・O・ライシャワーの3人を挙げ、「悲しい時ですら、日本人は微笑みを湛えている。日本人に生活の作法として、生活のしきたりとなって根付いている」「感情を表面に出すまいとする日本人の自制だろう」を紹介し、「『笑い』は、諦観もしくはさとりの境地ともいうべきもの」「自然を人間の『敵』とする西洋の自然観に対して、賢治は自然の中の存在としての人間、自然と共に生きていく自然観、人間像を打ち出し、それを『笑い』『微笑み』で表現した」「『笑い』を媒介して、多様な生物とのある種のコミュニケーション空間を形成している(人間と自然との共生モデル)」と王敏さんは言う。また「デクノボー」にも注目し、「誰が賢くて誰が賢くないかわかりません」「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」「心の苦痛を取り除く『癒し』、日本人の感性に根ざす『清らかさ』『清浄感』がある」と分析している。
宮沢賢治の生命観、人間観、自然観、哲学が、「賢治ことばの源泉」から浮き上がってくる。