rekisiwosiru.jpgイスラーム研究の泰斗であり、近著「将軍の世紀」などの江戸はもとより、「歴史とは」「歴史学とは」を重厚に示す歴史学者、かつ横綱審議委員長でもある山内昌之東大名誉教授が、古今の名著75冊を紹介しつつ縦横に語る。生き生きとした手に取りやすい面白い本ばかり。すぐ何冊か手に入れようとしたが、なかには絶版のため驚くほどの値段に跳ね上がっていたのもあり、まいった。

歴史は勝者の歴史となりがちであり、資料も言語も時代背景・制約の中にある。点と点を結び、流れを掴むことが重要だが、小説・物語は面白すぎ、学問・研究は地味になりすぎる。「人物を評する事は、そういう見方しかできない自分を評されることになる」と戒められたことがあるが、正しい。本書で紹介される名著は、それらを乗り越えたものであり、力ある山口昌之氏に厳選された「安心できる知識を確実に得られるような『歴史を俯瞰する名著』」なのだ。「これぞ、『知』の醍醐味」と帯にある通りだ。

「徳川幕府が平和と繁栄の統治をもたらしたと明言している頼山陽の『日本外史』」「荻生徂徠が大岡越前守に対して、今から読書・学問をすれば、務めが疎略になりかねないと入門を勧めなかった『ハ水随筆』」「野人肌の外交官・石射猪太郎は日中戦争の拡大を阻止する意思が乏しい広田弘毅を批判し、『広田外務大臣が、これ程御都合主義な、無定見な人物であるとは思わなかった』と述べた。広田は小説家の文章で美化されすぎた(『人とことば』)」「臣民が恐れる支配者の方が、臣民を恐れている支配者よりすぐれている。この言は中東イスラーム世界の近現代史の特質を理解する手がかりともなるだろう(イブン・アッティクタカーの『アルファフリー』)」「砂漠での『不正規戦』の特殊な手法が余すところなく、書き記されている"アラビアのロレンス"の『知恵の七柱』」「老境や混沌を乗り切る知恵を与えてくれる佐藤一斎の『言志四録』」「青春の日にいちばん感動した吉田松陰の『留魂録』」「日本のイスラム・中東研究の原点、大川周明の『回教概論』」「日蓮思想と世俗的終末論と軍事理論の混淆に結びついていく、戦争と平和の弁証法、石原莞爾の『最終戦争論』」

「綱吉に諫言を繰り返してきた大老・堀田正俊が殿中で刺殺された背景に迫る小川和也『儒学殺人事件   堀田正俊と徳川綱吉』」「徳川幕府の官僚制における重要テーマである老中と側近との関係(福留真紀『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』)」「室町幕府を2つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い(亀田俊和『観応の擾乱』)」「美談や偽善では、民主主義を守れないことを教えてくれる塩野七生『ギリシア人の物語』」「史料を具体的に見ることでわかる時代感覚、山本博文の『歴史の勉強法 確かな教養を手に入れる』」「歴史のグローバル化の中で明治維新の意味を考える著作、三谷博『維新史再考』」「いつまでも後継者に譲る気のなかった細川忠興、その父子不和を表に出さない忠利の分別と統治(稲葉継陽『細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり』)」――山内さんは「かねてガラシャと忠利ひいきでもあった私には誠に嬉しいことである」と言っている。「外交官・岩瀬忠震の不手際を紹介する松浦玲の『徳川の幕末』」「戦国や幕末の知られざる逸話を巧みに捌く歴史随筆集、中村彰彦の『その日信長はなぜ本能寺に泊まっていたのか 史談と奇譚』」「ルー・テーズ、ボボ・ブラジル、ブッチャーら外国人レスラーから見た日本人論、門馬忠雄の『外国人レスラー最強列伝』」

なかには、第一次世界大戦中に英国陸軍諜報部の情報員として活躍したサマーセット・モームの体験をもとにした短編集「アシェンデン」を紹介。「モームは死への恐怖を乗り越えるほど、人間への好奇心や関心が強かったのではないか。歴史の本質に関わる問いを、楽しみながら考えさせてくれる点でも、モームは端倪すべからざる作家といえるだろう」と言っている。

とにかく面白い。


hanatiru.jpg足利将軍家の重臣一族・細川藤孝(後に幽斎)と明智光秀は、織田家中でも昵懇の仲。信長の命により、嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉が縁組となる。忠興は言葉少なく笑うこともなくぎこちない。なにより愛を知らなかった。親の愛情のなかで育った玉は戸惑いを隠せない。少しずつ心が通い合うようになった頃、突如起こった本能寺の変。父・明智光秀の謀反により、夫婦の運命は暗転する。細川家は光秀に味方せず、玉は謀反人の娘として山奥に幽閉される。あまりにも過酷な運命――玉はやがて、キリスト教の愛に惹かれていく。玉によって初めて愛を知った忠興は、玉の心を引き寄せようと焦るが、すれ違いは増し、孤独と恐怖から侍女の耳を削ぐなどの蛮行にまで至る。歪んだ愛は次第に亀裂を増していく。

秀吉のもとで、忠誠を誓い、疑念を持たれないよう戦闘となればあえて先陣を切る忠興。「大坂屋敷に住まわせるべき妻とは誰なのか」――。「そなたの『玉』を大坂に呼び寄せよ。美しき謀反人の娘を、私はこの目でじっくり見たい」と秀吉は言う。秀吉との恐怖の神経戦、利休や秀次の自害、朝鮮出兵、忠興に降りかかる石田三成の讒言、秀吉の伴天連追放令、秀吉の死、そして関ヶ原・・・・・・。事あるごとに忠興と玉は、翻弄され、決断を迫られる。

これほど過酷な人生があろうか。玉(ガラシャ)も忠興も。

「愛しているのに、愛し方がわからなかった・・・・・・」「生きる上で必要なのは、忠興の独りよがりの愛ではなく、全てを受け入れて寄り添ってくださる神の愛なのではないか」「私を独りにしないでくれ」「『散るべき時を知り、己の命を絶て』それが、父上が私に最初に教えたことではありませんか。私にとって散るべき時は----玉の願いを叶える時でありたい」「もう二度と、玉を傷つけたくない」「そなたは私の妻である以上、死なねばならぬ。私は(独りよがりな愛から)そなたを解き放とうと思う」「忠興様は、己の立場から逃げることなくその命をかけてきた。その忠興様の妻であるならば、私も、逃げることなくこの命をかけたい」・・・・・・。

辞世の句、「散りぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」――。ありのままに生きる強さと美しさ。どう生きるかは、どう死ぬか。あまりにも過酷な宿命の人生を課せられた忠興と玉(ガラシャ)を、見事に描いている感動的作品。


tensai.jpg日本に襲いかかった大災害。その時、人はどう動き、歴史はどう変わったか。それぞれの人間ドラマを描く。

天文11(1542)の甲府洪水。甲斐国は谷の峡(かい)。甲斐国の国主となった21歳の武田晴信は、板垣信方らが隣国の攻略こそ大事とするなか、「甲斐千年の宿痾を癒やす大普請」として、築堤に乗り出す。霞堤の原型となる信玄堤。この築堤とともに河道改修や遊水地保全を行う。

明治29(1896)の三陸沖地震。田老村の漁師・四郎は、「海の男なら、大波が来たら向かっていけ」との言葉どおり正面から津波に向かって進み助かる。津波が来ない高台に仲間とともに移り住むが、時間が経つとともに、仲間は海に近いところに移っていく----。決して山に上がりたがらなかった老人と、決して浜に下りたがらなかった大工の親方と、山から浜へ節を曲げた船頭の号泣する声

寛喜2(1230)の大飢饉。執権北条泰時の頃の京都。下流から、米の荷を上げて京の街へ送り出す問丸の仕事をしている滝郎は米を買いまくって高く売ろうとする。大飢饉のなか京の人口は種籾まで食べてしまう地方の農民が流入して増加。滝郎は、ついに田舎から百姓を連れてくる違法の人身売買にまで手をつける。全国各地で農民の逃亡が続き、難民が流入する京都。飢饉は、断続的に数年続いた。

宝永4(1704)富士山噴火。この年は49日前に宝永の大地震(南海トラフ)があり、死者は3万人に及んだ。富士山噴火は新井白石の「折りたく柴の記」に「昼にもかかわらず空が暗く、蝋燭をともして講義をした」とある。左右対象の富士山に「宝永火口」が生じた。噴火の火口に最も近い須走村に生まれ育った与助は、「百貫与助」と呼ばれ、重い荷駄も運べる「馬追い」「馬方」。必死に逃げた先は浜松。須走村のひとつ東側の大御神村から浜松に逃げてきたおときに頼まれ、大御神村を訪ねることになる。驚くことに火口に最も近い須走村だけは、復興への力強さがあった。その理由とは

明暦3(1657) 1月の江戸大火、振袖火事。キリスト教を信じて牢に入れられた権右衛門らは解放され、「鎮火したら、浅草の善慶寺へ出頭せよ」と言われる。千住大橋を渡ろうとするが、浅草門は開かない。「あ、江戸がない」――権右衛門は、江戸が巨大だったからこそ大火なのであり、人のいるところに天災があるのだと感じるのであった。そして島原の乱と老中・松平伊豆守信綱と南蛮絵師が絡む。

昭和38(1963)の裏日本豪雪。練馬の小学校教諭の鳥井ミツは正月休みで新潟県に帰る。そこで豪雪。始業式となっても帰れず、やっと乗った急行「越路」の中に閉じ込められる。死者228名、行方不明者3名、住宅全壊753棟という大被害。当時は裏日本という言葉が普通に使われた。「現代は、天災でないものを天災にした。天災と人災の区別をなくした」と言う。


tyanbara.jpg吉川英治の「宮本武蔵」を始めとして数多ある武蔵像のなかでは極めて異質。60余戦して全て勝利したその戦いの部分を徹底的、迫力満点で描きあげた。壮絶な生死をかけた戦いによって技を磨き、自らを心身ともに鍛え上げ、地水火風空の「五輪書」を書くに至った高尚な剣聖・宮本武蔵ではなく、何が何でも勝ち抜なければならないと、ただただ戦い勝つ荒々しい執念そのものが剣豪・宮本武蔵であったことが噴き上げるように描かれている。荒ぶる武蔵の魂だ。

「今日まで剣に生きてきて兵法というほどのものではないな。ただのチャンバラにすぎん」。最後に、父親・新免無ニとの戦いに勝った武蔵はそう吐き捨てる。新免無ニの当理流は、左手に十手を構え、さらに槍、手裏剣、捕手の技まで含む。宮本武蔵の円明流は、左に脇差を持つ。武蔵は気を飛ばす。父子のアンビバレント的関係がジワリと描かれ面白い。

幼き頃、当理流・新免無二と京八流・吉岡憲法との壮絶な戦いを見る。描かれる武蔵の戦いは、生きるか死ぬかの壮絶な戦いの連続。有馬喜兵衛、秋山新左エ門、吉岡清十郎、その弟吉岡伝七郎、百余名にも及ぶ一乗寺下り松の吉岡一門の撫で切り。1人、299人、100104人、105人と1人ずつ描かれるド迫力ときめ細かな描写。そして宍戸又兵衛。三河谷刈谷の徳川譜代・水野勝成の下にいた宮本武蔵は父に呼び出され、佐々木小次郎との決戦に至る。場所は船島。本書では、この佐々木小次郎との決戦が、「当理流と岩流の争いではなく、細川家の小倉城と岩石城の戦い」「相思相愛であった雪がなんと佐々木小次郎の妻となっており、その息子小太郎は武蔵の子であった」などの背景が語られる。佐々木小次郎に止どめを刺さなかった武蔵。長刀のつばめ返しに勝つため、それより長い木刀を削り持つ。なぜだったのか。それらの解釈にもつながる話だ。

宮本武蔵を、「戦闘」に集中することによって描いた本書は、これまでにない宮本武蔵の迫力と生き様、そして戦国時代の武人の哀愁をも見事に書き出している。


jiu.jpg誉田哲也「ジウ」シリーズ。広尾中央公園で子宮を抉りとられた死体が発見された。東弘樹警部補らが懸命に捜査するが、2ヶ月たっても身元さえ判明しない。一方、「歌舞伎町セブン」の陣内陽一は、彼の店「エポ」を訪ねてきたルポライター土屋昭子から「ちょっと、裏仕事を手伝ってほしいの。ジンさんか、ジロウさんのどっちかに」と頼まれる。土屋は、「歌舞伎町封鎖事件」を起こした巨大犯罪組織「新世界秩序 N W O」にに長く関わり、今は脱退希望。正体不明でセブンから嫌われていた。しかしジロウが動くことになる。

やがて死体の身元が判明。中国人女性、しかも驚くことに経団連の事務総長で、パナテック会長の初島邦之の愛人であった。その後、中国大使館近くで帝都大学院生・尾身崇彦と恋人・原田里香の惨殺死体が発見される。さらに陣内の店「エポ」に威圧感おびただしい奇妙な客が集団で訪れ、歌舞伎町封鎖事件を起こした「新世界秩序」について、中心の女性が「いろいろな誤解があったと思うんです」と話し始める。

そうしたなか、世間を驚愕すべき出来事が次々と起きる。初島邦之が発表した経団連の「脱中国」方針。留学で日本に来ていた中国共産党幹部の子息の行方不明。惨殺された尾身崇彦の恩師・高垣昌良教授による日本学術会議の軍事科学・安全保障研究の容認への方針転換・・・・・・。いったい何が起きているのか。事件との関係は・・・・・・。

そしてNWO・CATとセブンの壮絶な戦いが始まっていく。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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