「サイコパスとは、良心を欠いて生まれた人々である」――。良心の欠如、共感性(思いやり)の欠如。だから社会適応のための治療は効果がない。人当たりがよく、弁説もさわやかで、人を騙すことが得意。魅力的に見えるが、言葉だけが上滑りして、感情が薄っぺらい。周囲を困らせ、他人を悩ませる人々。モンスターペアレント、クレイマー、酩酊下での暴力や暴言、パワハラ、セクハラ、DV、虐待、いじめ・・・・・・。こうした人々は「サイコパス傾向を疑ってみるに越したことはない」という。
人口の約1%、日本でいえば約100万人になる。サイコパス研究の歴史をたどり、①対人因子(表面的魅力、他者操作性、病的な虚言癖、自己中心性と傲慢さ)②感情因子(良心の欠如、共感性や罪悪感の欠如、冷淡さ、残虐性、不安の欠如)③生活様式因子(衝動性、無責任性、刺激希求性)④反社会性因子(少年期の非行、犯罪の多種方向性、症候群としてのサイコパス)――。この4つに分解し、④のみが低いタイプは成功者にも見受けられ、マイルド・サイコパスという。
サイコパスの原因は、脳の機能障害で「扁桃体の機能不全が中核」。遺伝的要素が濃い。そして「サイコパスの予防、治療、対処」「サイコパスとわれわれの社会――解決されないいくつかの問題」を冷静に現場・現実を踏まえて提起し、「サイコパスの責任能力」「米国の民事拘禁施設」等にもふれる。さらに「排除するだけでなく、究極的にはその存在と共にあり続けること」「少なくともサイコパスを指導者として選ばないこと」「光と闇の交わるところ」など、ヒトの進化論、宿命・業、人間論にまで論及する。
「俺はいつまでこんなことをしているのだろう」「俺は誰と、何と、戦っているのだ」――。秀吉の朝鮮出兵の濁流に飲み込まれる日本、朝鮮国、琉球国。島津の侍大将・大野七郎久高は、朝鮮国に攻め入る尚武を誇る島津の先兵となりながらも心に空洞をもつ。儒学でいうように「人は殺戮の禽獣でよいはずがない」「"天地と参なるべし"――人は天地と並び立つ崇高な存在たりうる」との思いを抱き、その境地を求めながらも戦乱の渦中に巻き込まれていく。
蹂躙される朝鮮国と琉球国。明鏡は朝鮮の被差別民である"白丁"の身分から脱しようともがく。儒学を教える道学先生との出会いと「師弟の精神」は明鏡の未来を拓く。そして琉球国の官人で"唐栄"なる集団に属し、密偵の任に携わる真市。文禄・慶長の役という理不尽きわまりない戦乱、阿鼻叫喚のなかで、3人の男が心奥からの葛藤を抱え込みながらも生き抜く姿、矜持を描く。
カギとなっているのは儒学の「礼」。国家に閉じ込められるアイデンティティ。そこから3人は脱出しようとし、「礼」に漂着する。それが本書の最後、「お待ちしておりました、島津の御大将。ようこそ、南海の勝地、守礼之邦へ」「久しぶりだな、禽獣」として示される。そして「たとえ天地と参なりえずとも。禽獣であろうと何であろうと。人が天地の間で尽くした思いや営みは、決して砕けず、褪せぬ煌めきを生むのではないか。天地に燦たる煌めきを」と結ばれ、昇華していく。権力者の誤った選択のなか、業火に焼かれる男たちはいかに折り合いをつけようとしたのか。悲惨な時代であればこそ哲学の意味が浮かび上がる。
秀吉の野望と妄想に始まった朝鮮出兵、明国征伐――。それを止めることが全くできず意見すら言えない家臣ら。具申できるはずの秀長、千利休の死。保身のために対馬宗家の作為を虚偽であると上申できなかった小西行長らの繰り返される隠蔽工作。虚偽は虚偽を呼び、暴走は各大名のみならず日本と朝鮮の全てを飲み尽くす。修羅に巻き込まれ、田畑をもなぎ倒されていく無辜の民は無間地獄に突き落とされる。秀吉の死によってやっと終結する朝鮮出兵だが、武士は帰還しても民草は残される。まさに狂乱と地獄の天正、文禄、慶長の1580年代後半からの10年――。風雨激しき日も晴天の日も、信念を曲げずに一定の軌道で民草の地面(三河、堺、薩摩、博多、ルソン、朝鮮)を歩き抜いた徳川家の旧臣、しかも不遇の死を迎えた嫡男・徳川三郎信康の小姓衆であった佐橋甚五郎の人生が描かれる。一筋の道を歩む「星夜航行」だ。
三郎信康の死、冤罪を受けての出奔、商人への転身、九州・ルソンで遭遇するイスパニア対ポルトガルの争覇、秀吉の"バテレン追放令"とサン・フェリーぺ号事件や日本26聖人殉教、加藤清正等と行長・三成らの確執、"死んだふり"をしながら利根川東遷や伊豆金山を探掘し力を蓄える家康・・・・・・。なんと"関ケ原"の後に甚五郎は、家康の前に朝鮮の使節となって姿を現わす。
「甚五郎はうなずいた。武家に生まれた者が物心ついてまず教えられるのは『望みや願いを一切持つな』『生への執着を絶て』ということだった。戦場での生き死には、己の意志や力などではどうにもならないのだから、すべて天運に委ね預けるしかないものだった」――。諦観と自身の道に生きること、そして生きることに誠実、精神の自由を保持すること。民草の視座から未曾有の狂気と戦乱の時代を生きた男の清冽な姿、実に丁寧に迫力をもって描いている大変な力作だ。
西郷隆盛については、あまたの研究があり、語り尽くされている。家近さんにも大著がある。本書はそのうえで、素朴な「なぜ」を「西郷自身の人物」「周りの人々」「時代」等から突きつけて迫る。「なぜ辺境ともいえる薩摩か」「薩摩藩内の真の主役は誰か」「なぜ西郷が"図抜けた存在"になったか」「なぜ大久保と確執をもち、なぜ自滅したか」等だ。
西郷の評価は、「小さなことには拘泥しない泰然自若、清濁あわせもつ大人物」と定まっている感がある。しかし、そのイメージとは落差があるという。「誠実・無私・情義に篤い胆のすわった人物」は間違いないが、「繊細かつ律儀」「都会的でエレガント」「人目をはばからず涙を流し、人の好き嫌も激しい」「神経が細やかでストレスに悩まされる」「相手との駆け引きを楽しむ」「結構用心深い」などだ。そして感受性や庶民との同苦は生来のものではあったが、「沖永良部への流島」が思慮深く、志操堅固な西郷に変身させたという。
そして西郷をめぐる7つの"謎"に迫る。「なぜ早い段階で自決しなかったのか」「なぜ商人肌の人物を嫌ったのか」「なぜ写真が残されていないのか」「なぜ無類の犬好きとなったのか」「なぜ徳川慶喜を過大評価したのか」「なぜ庄内藩に対して寛大な措置を講じたのか」「立憲制の導入や共和政治をどう考えていたか」――。
加えて「西郷に代わる存在となりえた人物」「西郷の人格と周辺のライバルたち」などが、簡潔にまとめられているのは大変面白く、"西郷像"が浮き彫りにされる。
「技術」ということから「現地・現物・現人」の「3現」で各地を歩くと、日本の現在が見えてくる。先人の知恵・努力、技術者の苦境と弱点、日本の未来に技術の果たすべき役割と方向性――。技術という角度で、日本を見つめることの重要さを感ずる。政府も企業も官僚も。「現在の日本の苦境は、出来上がったものを手に入れることに慣れてしまった技術者自身の弱さに発している」「日本の技術者たちよ、道なき道をゆけ」という。
「技術は経営と切り離しては成り立たない。日本の製造業は良い物を作ることに心血を注いできたが、"良い物"というだけでは価値は生まれない」「『田老は巨大な防潮堤を作って津波と戦ったがうまくいかなかった』などの見当違いの記事が書かれるが、防潮堤は侵入してくる水の量をできる限り少なくし、住民が避難する時間をかせぐための構造物なのである」「"水をいなす"信玄堤の知恵」「明和の巨大津波と石垣島の津波石」「知識と行動を結びつける"行動回路"ができていない。日常的な訓練で、実際に体を動かして、自分の頭と体に"行動回路"を作る必要がある」「ダムと有田焼(磁器)」「"動かす"ことと"止める"こと」「制御安全と本質安全」「GDPとオートバイ、イミテーションを抱き込むホンダ」「"良い物"とは、顧客が"欲しい物"と技術者が"作りたい物"の間の"どこか"にある。技術者はその"どこか"を見つける努力をしなければならない」「利益の源泉は"物の世界"から"価値の世界"に移っている」「考えを作る――思考展開法」・・・・・・。
技術者の声が日本では小さすぎる。もっと大きくなることだ。そして技術者の側も"作りたい物"の狭い枠や組織の駒から脱して、日本全体の問題を直視して進め。きわめて重要・重大な指摘を真正面から受け止めたい。