レッドリスト.jpg衝撃的、人類の存亡をかけたド迫力サスペンス。東京で次々起きる原因不明の感染症、多数の行方不明者、切断死体、病原体を媒介するヒル、人食いネズミ。厚生労働省の降旗一郎、国立感染症研究所の博士・都築裕らが解明に走るが、事態は人類の敵と化した生物対人間の「絶滅」をかけた戦いへと急展開する。文明の弱点と盲点を突く独特の"安生ワールド"全開の力作。

「生存者ゼロ」「ゼロの迎撃」「ゼロの激震」のゼロシリーズ。そして「Tの衝撃」に続いてこの「レッドリスト」。安生正氏の作品は、理系頭脳と都市構造や大災害・気象など工学的知見によって緻密に骨格が形成されている。今回は大都市の地下構造と進化論だ。文明の発展は脆弱性をはらむが、それを根底的に問い、自然に対する謙虚さをもつことの重要性を突きつける。東京ほど地下に地下街、地下鉄、放水路、共同溝等が高度に張りめぐらされた都市は世界にない。


ルポ 最期をどう迎えるか.jpg2025年、日本の年間死者数は今より20万人以上ふえて150万人を超える。「超高齢社会」であるとともに「多死社会」となる。しかも認知症高齢者は約700万人になる。

「これまでの医療は寿命を延ばす延命に価値をおいてきたが、これからは患者が亡くなるまでの生活の質が大きな指標となる」――。「超高齢社会と終末期医療」「尊厳ある終末期医療」「"在宅医療"という選択ができる社会」「医師・看護師・介護士を含めた地域の連携の体制整備」「人工呼吸器、胃ろうと延命治療・平穏死」「認知症、単身高齢者への寄り添いと看取り」「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)(事前の医療・介護の計画づくり)の考え方や実践」「救命のジレンマに葛藤する医師」・・・・・・。課題は多いが、大きな転換点にあることは間違いない。2025年は近い。真剣に考え取り組む、急な坂にさしかかっている。


なんとめでたいご臨終.jpg「旅立つ人も見送る人も笑顔・満足な死に方」――。小笠原文雄・日本在宅ホスピス協会会長ご自身の"笑顔の事例"を紹介した書。人生の最後の最後まで「延命」と「器械」で迎える「死」ではなく、穏やかな「死に方」を追求している。

「在宅ホスピス緩和ケア」の「在宅」とは暮らしている"処(ところ)"。「ホスピス」とはいのちを見つめ、生き方や死に方、看取りのあり方を考えること。「緩和」とは痛みや苦しみを和らげること。「ケア」とは人と人が関わり、暖かいものが生まれ、生きる希望が湧いて、力が漲ること。「旅立つ人が希望死・満足死・納得死ができたなら、離別の悲しみはあっても、遺族が笑顔で見送ることができる。"なんとめでたいご臨終"と言わずにはいられない」という。それには在宅緩和ケアを行なうスキルがいる。人生の最終章を迎える人と家族を包み込む小笠原さんのスキルが示される。

なかでも「ところ定まれば、こころ定まる」、つまり最期までここにいたいと願う"処"で過ごすことが、いのちの奇跡を生み出す。とくに"家"に帰りたい人が多いという"処"だ。最期まで家で朗らかに生きられる。そうした在宅ホスピス緩和ケアの総合的なスキルの実践レポート。


呉漢(上).jpg呉漢(下).jpg二百余年続いた(前)漢王朝が乱れ、簒奪した王莽の改革も失敗、反乱が全土に及んだ一世紀初頭。光武帝劉秀は天下平定・後漢王朝建国事業を進める。その劉秀の下で最も信頼を得た名将・呉漢を描く。

天下平定は言語絶する茨の道。制したと思えば、また反乱。広大な中国の混乱を収拾する道は、河北から始まり最後の蜀の公孫述を破り平定するまで、長い歳月を要した。謹厚で温柔な人物といわれる劉秀が、寛大で"赦す人""温情の人"であるとともに、教養と武略をも兼ね備えていたことがわかる。そして、「志とは、雲に梯子をかけてのぼること」と教えられた呉漢だが、"平凡""忠誠"に徹し、祇登、角斗、況巴、魏祥、左頭、樊回、郵解、郵周、呉翕ら、智慧袋、軍師、謀臣、軍吏、謁者らに恵まれ、その結束は固い。

宮城谷昌光氏の小説には「人間学」がある。そこが魅力であり、面白さだ。民は苦悶し、賊は跳梁するなかでの「天」の下での平定・建国。「民の憂い募りて国滅ぶ」「民の欲する所 天必ず之に従う」を思う。


中動態の世界  國分功一郎著  医学書院.jpg「意志と責任の考古学」が副題。宇宙、神、存在と時間、言語、意志、行為、自由、選択、暴力、権力、徳と善など哲学的、根源的なことを考えさせられた。

アリストテレス、バンヴェニスト、アレント、デリダ、ハイデッカー、ドゥルーズ、スピノザ等の思考にふれつつ、失われた「態」・中動態の世界を蘇らせる。

「行為は意志を原因としない」「かつて、能動態でも受動態でもない中動態なる態が存在していて、これが能動態と対立していた」「受動態は中動態の派生形として後から発達したにすぎない」「能動態と受動態の対立は『する』と『される』の対立であり、意志の概念を強く想起させる。中動態に注目することで、この対立相対化を試みる。そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない」「その後の西洋世界で、意志や責任、人間主体といった概念が創造され、中動態は衰退する」「過去を断ちきるものとして"選択の開始地点の確定"が必要であり、意志の概念が呼び出され、責任が問われることになる」「能動性と中動性の関係でこそ、権力は説明できる」「強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できる」「中動態はその後、抑圧され消滅していったが、回帰がある。『する』と『される』、能動と受動に支配された言語への違和感は陰に陽に、少なからぬ哲学者によって表明されてきた」「出来事は能動でも受動的でもない」「神に受動はありえない――『される』ではなく『なる』」「善は過剰である。過剰であるがゆえに、それは悪を暴力的に排除する」――。そして「われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることができる。そうして少しずつだが、自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である」という。

<<前の5件

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

太田あきひろホームページへ

カテゴリ一覧

最新記事一覧

私の読書録アーカイブ

上へ