重厚な書である。現代社会の底流に横たわっている日本が挑んだ「近代化」の根源について考察、開示してくれる。学問の世界が専門化し各論化するのはやむを得ないが、「日本近代についての総論」を骨太に引き出している。まさに歴史を俯瞰し、綿密に深く入り、わしづかみする力を感ずる。
その日本の近代を形成したものとして「政党政治」「資本主義」「植民地帝国」「天皇制」の4つをあげ、「なぜ、どのように成立してきたか」を剔抉する。
19世紀後半に活躍した英国のウォルター・バジョットの示した「英国の国家構造」「前近代の要素"固有の慣習の支配"から近代を特徴づける"議論による統治"を成り立たせるものは何か」から、日本のこの4つを分析・解析する。いずれも根源は深く、成立への過程は激烈だ。「幕藩体制の権力抑制均衡メカニズム」「文芸的公共性の成立」「明治憲法下の権力分立制と議会制の政治的帰結」・・・・・・。「資本主義」については不平等条約の打開や外債に依存しない意志のなか、「自立的資本主義化への道」として政府主導の殖産興業、租税や教育など4つの条件が示される。そして日清戦争、日露戦争を経て、国際的資本主義への道が分析され、さらにその没落の過程が示される。「植民地帝国へ踏み出す日本」では、三国干渉がいかに大きかったか、枢密院の存在、韓国統治の中心統監の権限をめぐる争い、文民と陸軍、帝国主義に代わる地域主義の台頭など生々しい。そして「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」では、ヨーロッパのキリスト教の機能を見出せない日本の「国家の基軸としての天皇制」「神聖不可侵性を積極的、具体的に体現された道徳の立法者としての天皇」、そこで憲法外で明示した「教育勅語」等が解説される。とくに教育勅語の中村正直の草案を覆した井上毅の「宗教教育から峻別」された「天皇自らの意思表明の形式」への思考回路が鮮やかに示される。全体を通じ、世界の列強のなか、明治、大正、昭和初期の短期間に遂行を迫られた「近代化」への苦悶が重厚に語られる。
明治150年を迎える。幕末の大激動の渦中、謎も多い。膨大な史料、歴史家の研究をもってしても完全に定まるとは言えないものもある。中村彰彦氏が徹底して調べ、考える。
竜馬「暗殺」――。慶應3年(1867年)11月15日の夜5つ半(9時)前後、京都の河原町四条上ル蛸薬師角にある醤油業近江屋(井口新助)の母屋2階で、坂本竜馬、中岡慎太郎が暗殺される。幕府の見廻組組頭・佐々木唯三郎指揮の6人、その刺客団の1人であった今井信郎が竜馬を斬殺する。しかし、問題はその裏だ。「竜馬『暗殺』については、薩摩藩とくに西郷を黒幕とする仮説を立てると、かなりの事実を矛盾なく説明することができる」という。
「松平容保はなぜ京都守護職に指名されたか」――。それは、会津が最も信頼されていた藩であったこと。会津藩は保科正之に始まり、名家老・田中玄宰によって富国強兵に成功した雄藩であったがゆえに、幕府から尊王攘夷派というテロリストを制圧する役割を担わされた、という。
「孝明天皇は『病死』したのか」――。「孝明天皇病死説を主張する研究論文にはかなりの論理の飛躍や不備が存在する。その反対に毒殺説にはかなりの説得力がある」「岩倉具視を黒幕、かれにリモート・コントロールされていた宮中『討幕派』の女官を実行犯とする見解を考察すると・・・・・・」と闇に踏み込んでいる。
「教育の深さが日本の未来を決定する」「教育は人格の完成を目指す」「学校教育は一人ひとりの子どもの未来を、そして我々の社会の将来を創る仕事であり、それを責任をもって担う存在こそ教師である」――。教育費の負担軽減は環境づくりとして大事なことだが、何といっても問われるのは教育の中身、教師の質だ。
本書は教育改革国民会議、中央教育審議会などで主要な役割を果たし、現在も新しい時代のなかでの教育、学校教育の再建と推進に熱く働き続ける梶田先生の「教師力の再興」への思いの込もった書だ。「なるほど、教師は使命職」「教師はさすがに人の心を耕し、鍛え、育むプロ」との思いがつのる。そして教師だけではない。各界のリーダー的立場にある者、そして父母保護者も参考になり、考えさせる。
「師道の再興を」「今、教師に求められる資質・能力」「確かな授業、熱意を込めた魅力と迫力ある授業」「真の授業力とは」「内面性の教育で確かな学力と豊かな心を」「加賀千代女、松尾芭蕉の句から何に気づかせるか」「開示悟入の教育の実現を」「"外れ"教師問題、"教えない"先生問題」「教師の不易の資質・能力とは」・・・・・・。柔軟で深く、どっしりした人間教育への指針が伝わる。
心を閉ざした息子・沢キミヤと父は、猟銃をかつぎ、とりつかれたように森林の中へと突き進む。北海道の、人も全く通わぬ奥深きカルデラの山中――。そこで狙った熊に逆襲され、群れをなす野犬にも襲われる。その獣との凄絶な戦いはすさまじい。いや北海道の開拓史には常にそうした言語絶する厳しい自然と野生動物との格闘があったことを想起させる。
父は倒され喰われるが、息子は戦い生き残る。凄絶な戦いには、人間もない、知性も理性もない、思考する暇もない。土壇場に立った時に噴出する野生の無限のエネルギー。ヒトと獣の生きる、食う、生殖――それは過酷な自然のなかで生命を繋ぐ残酷な結晶ですらある。人肉を喰らう極限の残酷さだ。「何でもよい。生きよ!」との声が原野に地響きのように聞こえてくる。まさに「肉弾」、むき出しの肉弾だ。
武田泰淳の「ひかりごけ」、コッポラの映画「地獄の黙示録」を思い出した。現代文明のなかで、人は何層にも分かれて生きるようだ。しかし究極する所、その生命の根源の所には生への執着と、とてつもない野生のエネルギーがあるようだ。北海道の原野で今も生き抜いている河﨑さんならではの野太い、荒削りの「生きる」「自然・動物と共に生きる」小説に、今回も"浴びせ倒され"た。
日本史にはたくさんの謎が潜んでいるし、勝者の歴史となっていることは否めない。磯田さんは、「日本史の内幕を知りたい。そう思うなら、古文書を読むしかない」と、15歳の頃からずっと古文書を見つけ、解読してきた。きわめて面白い。
「沼津市にある高尾山古墳は卑弥呼と全く同世代の"初期古墳"(初期古墳を護れ)」は、国交大臣の時の話で私もかかわった。「秀吉の天下統一に本願寺が協力」「『殿、利息でござる!』の浅野屋甚内と穀田屋十三郎の感動的な"慎み"」「三方ヶ原の戦いでの織田援軍の人数」「豊臣の金銀の行方」「水戸は"敗者復活"藩」「築山殿と家康の関係」「井伊家と松下嘉兵衛と秀吉」「秀吉は秀頼の実父は疑わしい」「庶民が実学を学んだ"寺子屋"文化の財産」「我々は『本が作った国』に生きている」「龍馬の書状発見」「"民あっての国"山田方谷(総じて天下のことを制するものは、事の外に立って事の内に屈してはならない)」「日本の人口が世界シェアの最高になったのは綱吉の時代(6億人中3000万人)」「中根東里と司馬遼太郎」、そして「災害と日本人」・・・・・・。いずれも興味深く、「日本人と歴史」の重さがじわっと突き上げてくる。