「ヨーロッパは、進歩したと思いこんできた自分たちの文明に逆襲されているのである(残暑の憂鬱)」――。次々に押し寄せる難民、頻発するテロ。しかも人権尊重の理念によって難民の権利を保持することに対する市民からの反発。難題に頭をかかえるヨーロッパ。正邪を分かち攻撃性をもつ一神教のキリスト教、イスラム教、ユダヤ教。そして「ポピュリスト(大衆迎合)」ならず、民衆の不安と怒りを煽り、怒れる大衆と化した人々を操る「デマゴーグ」扇動家の台頭。「民主主義下のリーダーこそ、大いなる勇気と覚悟と人間性を熟知したうえでの悪辣なまでのしたたかさが求められると思っているが、メルケルなどEUのリーダーにはその資格が欠け、リーダー不在」とスパッと言う。「民主政が危機におちているのは、独裁者が台頭してきたからではない。民主主義そのものに内包されていた欠陥が、表面に出てきたときなのである」「現実的な考え方をする人がまちがうのは、相手も現実的に考えるだろうから、バカなまねはしないにちがいない、と思ったときである(マキャベリ)」・・・・・・。
2013年11月から2017年9月まで「文藝春秋」に掲載されたものだが、ヨーロッパの経済危機、難民、テロ、EUのかかえる矛盾とリーダー不在、そして日本についての考えが述べられている。日本に今もはびこる「観念的理想主義」ではなく、「現実的理想主義」から、"笑える"現実を突きつける。ユーモアや冗談、「アイロニーとは、上質の冗談と考えてよい」と"余裕""遊び""相手を思う"など、現実的な核心部分に心を突かれる。本書の結びには「政治の仕事は危機の克服」が取り上げられており、「人材が飢渇したから、国が衰退するのではない。人材は常におり、どこにもいる。ただ、停滞期に入ると、その人材を駆使するメカニズムが機能しなくなってくる。要するに社会全体がサビついてしまうんですね」と、停滞期の今だからこそ、徹底的に「持てる力や人材の活用を」という。
賢い人だが大政奉還をし、味方を捨てて逃げ出した臆病者、徳川を滅ぼした逆賊・張本人などと酷評され、失意のなかで長い隠居生活を送った徳川慶喜の後半生とは・・・・・・。たしかに、一切の政治勢力とも無縁の関係を通し、ひたすら狩猟、投網、絵画、能、囲碁、将棋、ビリヤード、そして写真や自転車から自動車まで趣味の世界に生きたようにも見える慶喜だが、沈黙の中に潜んだ真実と心の中はどうであったのか。丁寧に探った興味深い著作。
慶喜が生まれたのは1837年(天保8年)。1867年(慶応3年)10月に政権返上を朝廷に提出、1868年(明治元年)4月に落魄の身となって江戸を去り水戸をへて、静岡で約30年暮らすことになる。そして1913年(大正2年)東京で77年の長い生涯を終える。「天皇政府に反感を抱いていた」「謹慎の意志が強かった」・・・・・・。沈黙していたがゆえに諸説が唱えられるが、「朝敵の縛束に苦しめられ続けた」「朝敵の烙印を押されたことを深刻に受け止めた」と家近さんはいう。そして勝海舟・大久保一翁・山岡鉄太郎の三人、なかでも勝海舟の慶喜に自重を求める規制と監視が、慶喜の心を縛ってきたとする。勿論、勝や大久保等にも「主家を売る国賊奸物」との非難がつきまとったことも事実であり、それが慶喜への自戒を促し、静岡に「押し込めた」ことに連なったようだ。慶喜の「鬱屈した思い」は、あまりにも類例なく巨大で思量できない。だからこそ日本社会と政治状況の激変するなか、慶喜自身の心境にも明治20年代には変化が生じ、30年代の東京移住、皇室との関係修復、公爵授与、自分史への協力などへゆったりと変化していく。清朝の哲人政治家の曾国藩の「四耐四不(冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、噪がず、競わず、随わず、もって大事を成すべし)」――。しかも大事ばかりか小事も成さないとした人生はいかばかりかと慮う。
東京で保険金連続殺人事件が発生、内縁の男女が共犯で逮捕される。主犯は内縁の夫・安西俊貴、共犯は飲食店経営の若い女・北條和美で、被害者はいずれも高齢者で、北條と夫婦となって事故を装い殺されていた。
稀代の犯罪者、詐欺師「安西」は何故にこうなったか。共犯者・被害者は何故に巻き込まれ、逃げられなかったか。勝利者と思われる者(安西の兄)は何故に人生を失う破目になったのか。その過程を丁寧に語りつつ、緊迫した最終章に至る。
「何で生きてるの?」の問いが繰り返され、しだいに人生哲学の次元へと引き込まれる。「生きる意味」「生きる価値」「人生の勝者、敗者とは?」「強者と弱者」「支配と被支配の連鎖」・・・・・・。1999年とは「ノストラダムスの大予言」の年。
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの名作(2006年刊行)。主人公はキャシー・H、そして生まれ育ったヘールシャムの施設で共に暮らした親友のルースやトミー。キャシーの回想で語られるが、静かに冷静に、自分と回りの人々の心の動き、感情と抑制が丁寧にキメ細かに描かれる。そこから伝わってくる切実さや切迫感は、外部の社会と遮断されたヘールシャムの特殊性を背景にしているからこそだ。
「ヘールシャムとは何か」「わたしを離さないで、とは何か」が常に基調音としてある。クローン人間、遺伝子工学のとめどもない進展、臓器提供・・・・・・。それをクローン人間の側から苦しみ、アイデンティティー欠如の底深い不安、人間に使われるというひどい"使命"、生命倫理。それらに現実の残酷さから迫るがゆえに、思考回路はどんどん「科学と宗教と哲学」に突き進み、運命のやりきれなさへと誘う。
キャシーらは、過剰なほど相手を思いやるがゆえに、提起される問題は、深く、悲しい。