地球環境と水問題――この問題の全貌と解決への方向性、メインストリームを真正面から示している。「水の悲観論者は間違っているが役に立つ。水の楽観論者は正しいが危険だ」――悲観論と楽観論は、水に限らず気候変動でも、エネルギーや食料でも、世界経済でも常に提起され、その過激さはイデオロギーとなり、現実的解決への行動を妨げる傾向にあるようだ。沖さんは「水と地球環境と人類の未来についての悲観論と楽観論の適切なバランス感覚を多くの方に得ていただければ幸甚である」と言っている。
「地球の水の何が問題か」「なぜ、どのように、水危機がグローバルリスクなのか」「グローバルリスクへの取り組み」「2014年に国際標準が発行されたウォーターフットプリント」「仮想水貿易――世界の水に頼る日本の暮らし」「水から見た食料問題」「気候変動と水の関係」「気温の上昇と豪雨の頻度」「未来可能性の構築へ向けて――危機感は重要だが、プラス方向の動機付けもまた有効」「千年科学技術をめざそう」「持続可能性の構築」――。「環境と経済の両立に悩んでいた時代はとうの昔に過ぎて、社会と経済と環境という三者の持続性をいかにバランスよく構築するかを構想し、その実現に向けて取り組む時代が来ている」と結んでいる。
新たな有権者240万人は日本社会にどんな変化をもたらすか。若者と政治、若者と選挙、若者の意識の変化を現場から探っている。
「若者は政治に興味がないというのは必ずしも正しくない」「(世界に比べて)日本の若者の政治離れが進んでいるのは、若者があえて政治に強い問題意識を持たずとも、失業率が高過ぎるヨーロッパの若者や、大学の学費が高過ぎるアメリカの若者と比べると、相対的に親の庇護や、そこそこの有形無形のセーフティーネットの下、それなりに安定して生活していける、ということを意味しているかもしれない」「現在の若者は、今の生活に満足度は高いものの、将来を非常に不安に思っている」「今の18、19歳は"脱ゆとり世代"で"さとり世代"。右肩上がりの景気感を全く知らない。物欲はあまりなく、車やブランド品、海外、お酒・・・・・・。無駄な消費や行動はできるだけ避け・・・・・・」「18歳選挙世代はラインというSNSアプリとともに青春時代を過ごしている」「将来は不安なので、無理をしないで今を楽しもう、という諦観の上に立った満足感を求める傾向」「不安のタネは、就職や結婚」「世界をゆるがす若者のパワー(各国)」「本来若者は生意気な生き物だったのに、"わからないのに投票に行っていいのか"と遠慮しがち」・・・・・・。
希望が持ちづらい低成長時代を生きた日本の若者は、世界に比べて相対的に恵まれ、優しい世代となっている。上昇志向を抱きにくく、現状維持志向となり、距離の遠いものではなく、身近なものに関心をもつ。国政の過剰な熱気と批判には、うさんくささを感じるようだ。高飛車な大上段の政策論より、地域や身辺の周りの子育て、雇用、保育所、学費等に関心をもつ。そして、「この人わかるわー」という共感、嘘はどんどん暴かれる時代だからオープン、正直さが大切となる。距離が近いことだ。何ごともそうだが、若者に寄り添って、いっしょに考える政治が求められている。いやそれは、世代を超えて日本社会がそうした方向に動いているのではないか。
小学校4年生の6月、福岡県糸島の田舎に都会の団地から引っ越してきた山田加奈子。それはたった1年間の新しい生活だったが、姉や家族、いつも一緒の咲子などとともに"普通の日々"の全てをどんどん吸収していく。そこで出会った「死刑囚の母」のおハルさん。「残酷なところもいっぱいあるの。残酷な時代でしたからね。踏みつけてきたのよ、たくさんの命や、心を」「あなたには、残酷なできごとが起こりませんように」・・・・・・。それは初登校の日、田んぼの畦道でどんどん踏みつけられていく蛙の轢死体に気分が悪くなって保健室で介抱される加奈子が重なる。
森や田んぼ、豊かな自然のなかで過ごした濃密な1年。命や生老病死の近い所で、子どもの感受性が、より磨かれていく貴重な日々が描かれる。いい。
死刑の執行から話が始まる。父の安否を確認するために、新潟の実家に戻ると・・・・・・。「まったく、おかしな話です。実家に帰ったら、自分にそっくりな知らない人間が現れて、自分は昨日死刑を執行された死刑囚だという。わけがわからない」――。
そして次々と出てくる主役が、「俺はいったい誰なのか」「あの人は自分が何者かわからないのでしょうね」「誰が誰だかわからない」という"世にも不思議な世界"に入り込んでいく。カミュの「異邦人」や、コリン・ウイルソンの「アウトサイダー」など、私たちの世代の青春時代の"あの世界"が伏線として提示される。
実在と意識。「意識というのは個人の神経電位や化学反応だけではなく、それらを含めた人体付近の環境全体によって形成されているんだ。そして人体というのは、周囲の環境と情報をやり取りしている発信機であり、受信機なんだ。意識はそれらの情報を総合して形作られている。・・・・・・自分を自分だと思っている<自分>の中には、人体としては別人の、たとえばあなたの意識活動から漏れている信号も含まれている」「死にたくはないが死ななくてはならない。この矛盾状態を破るために、おれは、自分の死を自分で確かめることができないなどというのは我慢ならない、死んでも自分の死体を見届けてやると、そう強く念じたんだ。すると、首にロープを巻かれ、目隠しをされた自分の姿が、見えた」
あまり接したことのない心奥を突き刺してくる長編小説だが、最後まで迫り、ほんろうされる。
千利休の自害は謎であり、奥深く、多くの解説がある。秀吉と利休の確執を、かなり鋭角的に描いている。そして、1582年の本能寺の変、1600年の関ヶ原とともに、1591年の1、2月、秀吉に直言できることができた羽柴秀長と利休が相次いで死亡したことが、いかに政権を衰退させていったかを感ずる。
「殿下は現世の天下人。それがしは心の内を支配する者です。互いの領分に踏み込まぬことこそ、肝要ではありませぬか」「いや、現世をも操ろうとしたのはそなたの方ではないか」「秀吉は、豊臣政権の政治面を弟の秀長に、軍事面を黒田如水に、文化面を利休に託していた。だが利休は謀略面をも担っていたのだ。利休の謀略は(本能寺をはじめ)、次々と功を奏し、秀吉は天下人となった。しかし秀吉は、欲という魔に取り付かれ、己一個に富を集めんとした。民への苛斂誅求は言語を絶するものになった。・・・・・・殿下の関心を大陸に向けさせ・・・・茶の湯によって、戦国の世を終わらせようとしていたのだ」「わしは(秀吉)大陸の王になり、現世と心の内の双方を支配する」「茶の湯の世界には別の秩序があることを、古田織部は世間に知らしめてしまった。現世と精神世界という二重構造が・・・・・・」「利休から精神世界の支配者の座を譲られた時から、こういう結束を迎えると、織部は分かっていた」・・・・・・。
信長において茶の湯は名物唐物を所有するわずかの"本数寄者"だけのものであり、それを政治的に利用しようとした。利休(宗易)はその面白さを民へと拡大しようと"侘数寄"を誕生させた。秀吉はその"侘数寄"を万民の秩序保護に利用した。しかし信長の大陸制覇を踏襲した秀吉と利休の「民の安穏と己の野心」「現世と精神世界」の溝が亀裂となり、補完関係にあった二人はしだいに割れ茶碗のように破局を迎えていく。牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、細川忠興を描きつつ、ぐいぐいと利休自害の謎に迫っている。
