後藤さんの平成政治史の4巻目。3巻目は、第一次安倍政権から民主党の政権奪取とその終焉までを描いた(「幻滅の政権交代」が副題)が、今回は2012年末の総選挙での政権奪還、第二次安倍政権のスタート、アベノミクス、参院選・衆院選の連続勝利、平和安全法制、伊勢志摩サミット、消費税増税延期など、1016年9月までを描く。ちょうど私が第二安倍政権で、2012年12月から2015年10月まで約3年弱、国土交通大臣として閣内にいただけに、一つ一つが克明に思い出される。前年の3·11東日本大震災からの復旧・復興、防災減災・国土強靭化の緊要性、尖閣諸島周辺での海上保安庁の守り、観光のインバウンド急増、日中・日韓関係の改善、平和安全法制などに直接関わってきただけに、様々思い起こしつつ読んだ。鮮明に浮かんでくる。特に昨年7月8日、安倍元総理が銃弾に倒れた衝撃があるだけに、想い起こす事はあまりにも多く重い。
第一次安倍政権で安倍元総理はあのような形で退陣。私は2009年の総選挙で落選した。ある意味では、ともに地獄を見た。しかも日本の政治は、後藤さんが「幻滅の政権交代」と評したように迷走し、経済も外交も崩れ、そこに東日本大震災が襲いかかった。安倍さんも私も、「日本はこのような落日のような国ではない」との思いが重なり、「日本再建」を共に掲げ、与えられた政治生命をかけようとした。本書にある4年間は、「デフレ脱却」「経済再生」「アベノミクス」はその中心となるものだ。「安全で安心な勢いのある国づくり」は私の掲げたものだが、安倍総理と共通した思いから、ずいぶん語らい、国の勢いは間違いなく増したと思う。その勢いがあってこそ、参院選と衆院選の勝利があったし、観光客が急増し、TPPの交渉ができ、外交における説得力が増したのだと思う。本書では、政府と自民党・公明党と官僚の政局・激突が描かれているが、少なくともエネルギーが充満していたことは間違いない。人と人との摩擦も、国と国との摩擦もエネルギーがあってこそ生ずるものだ。本書が単なる外から見た批評や政局話になっていないのは、後藤さんが直接、その時のキーマンに取材をしてきた故の説得力を持っているからだと思う。政治家の心の内に入らない限り、政局はわからない。内側で戦った私として、「ここは書いていない」ことがあるのは当然だが、改めて外側から見ると「こう見えた」を知ることができたと思う。安倍元総理の「回想録」「実録」「検証 安倍政権」などが出ているが、本書は貴重な「政治史」だと思う。
「三島屋変調百物語九之続」として、「青瓜不動」「だんだん人形」「自在の筆」「針雨の里」の4章より成る。江戸の袋物屋・三島屋の「黒白の間」を舞台に語られる変わり百物語。訪れた客が胸に秘めた不思議な話を語り、心の澱みをきれいに流し重い荷物をおろす。聞き手であったおちかが嫁ぎ、いよいよ出産間近。三島屋の面々は緊張する。あとを継いだ富次郎は、「自在の筆」「針雨の里」など心震える話に、自身の曖昧な人生姿勢を改め、自覚的に「変わり百物語」の聞き役になり、聞いた話をさっと墨絵に描く肚を決める。
「青瓜不動」――。お奈津という15歳の娘が父親のいない赤子を孕んだ。死んだ母に代わって助けてくれた叔母も村外れの投げ込み墓に葬られる。「そんなのひど過ぎる!・・・・・・その瞬間、お奈津は何から何まで嫌になった」。誰も住まない荒れ果てた寺に住み、青瓜を育てることに・・・・・・。「この青瓜たちは、身を捨てて他者を生かす慈しみの化身だ」。そこの土から不動明王像「うりんぼ様」が出てきた・・・・・・。
「だんだん人形」――。味噌と味噌漬が売り物の人形町の丸升屋初代の文左衛門にまつわる話。初代は寒い北国の藩にある味噌醤油問屋で住み込みで働いていた。商いで訪れた山間の村(三倉村)は味噌作りとともに、魔除けの縁起物の土人形作りが盛んだった。そこで美貌でつるつる頭のおびんに出会う。思いやりのある代官が突如として、悪代官に代わり、村は弾圧され、おびんの恋する男も殺される。初代とおびんは追っ手を避けて村から逃げ、藩に代官の悪行を知らせようとする。「一文さん。その辛い道中で、いったい何度、これでもう命がないと思った?」とおびん。初代が「四度」と言うと、武者の土人形が渡された。この女の執念が込められた土人形がまさに「だんだん(元気な、威勢のいい)人形」。危機の時に代々を救いに現れて・・・・・・。
「自在の筆」――。病気で描く力を失ってきた絵師が、その能力を取り戻そうと、周りの人間を不幸にする筆の魔力に取り付かれてしまう。「己の才を縦横に活かして暮らしていたお人が、何かの事情で、それを失うことになったら、どれほど悔しく切ないことでしょう」と富次郎が思うのだ。
「針雨の里」――。語り手は右腕のない男。江戸よりも暖かな緑豊かな藩。その近くにある御劔山の狭間村は、迷い子や捨て子が連れてこられて成り立っている小さな村。鳥の羽毛と卵で暮らしていける。しかし「雨にはよく気をつけなきゃならねぇ」「降ってくるのが雨粒じゃないからさ。まるで縫い針みたいな、細くて鋭い氷柱みたいなものなんだよね」と言い伝えられていた・・・・・・。
凄まじい苦難、理不尽な仕打ちに会いながら強く、生き抜く女性の姿。生きるのにたくましい子ども、それを支える男たち。神仏が今よりずっと近くの日常にある時代。欲の怖さや悪業の結末、人間の業や弱さ、そして人情が巧みに描かれる。よくもこんなに多くの物語が紡がれるものだと感嘆する。公明新聞に、2021年8月から約1年連載された。
「直感と好奇心がひらく秘密の世界」が副題。難解と思われている数学。しかし数学は.「学ぶ」ものではなく、自転車に乗れるようになることをみても「やる」もの。歴史上の偉大な数学者たちも、直観と好奇心を総動員して、新しい世界を自分のものとしてきた。論理の世界の究極と思われがちだが、論理ではなく、直観こそが大事。アインシュタインは、「私には特別な才能など一切ない。ものすごく好奇心が強いだけだ」「私は直観とインスピレーションを信じる」と言った。
まさに世界の抽象的で理解不能だという事象を、理解できるようになること、見えるように感じられるようになることだ。直感を豊かにし、より力強く奥行きのある新たな脳内表象、脳内イメージを構築・発達させることだ(形の発見。円なら円というイメージ)」「デカルトの『方法序説』は理論書ではない。デカルト自身が試した知性向上テクニックについて語る個人的な証言であり、人間には自分で自分の知性と自信を構築する能力があるというメッセージを伝える自己啓発本である」と言う。ただし、その直観は、「数学的直観は私たちが日常的に使っている直観と同じものではあるが、言語や論理との対決によって発達し強固になっていく」「優れた数学者は、驚異的な直観と高次元の抽象的な構造を深く理解する能力を鍛えている」のだ。そして、「数学を書き表す仕事は、考えの明確化と言語の精緻化という二重の作業である(他人が捉えて再現できるように、自分の脳内イメージを明快、かつ精緻に書き換える高度な技術)」と指摘する。
「ボール1個とバット1本の値段の合計は1ドル10セントである。バットの値段はボールよりも1ドル高い。ボールはいくらだろうか?」(認知バイアス研究でノーベル経済学賞受賞した心理学者カーネマンの問い)。ほとんどの人が10セントと間違う。「1から100までの整数の和はいくつになるか」(数学者ガウスの昔話)も5000と間違って答える人が多い。無意識に出来上がった脳内イメージを解体し、直観を強化する作業が必要となるわけだ。「数学は知識ではなく実践である。脳の可塑性は無限であり、数学的知能は自分で構築するものだ」と言う。
「人間の言語と数学の言語」――この2つの言語は、何千年も前から並行して進化して、今日に至る。2つの言語は全く異なる2つの論理に従っている。そしてそれぞれ固有の機能、固有のルール、固有の強みと弱みを持つ。どちらも私たちに欠かせない。人間の言語が、認識を基準にしあいまいで一貫性がなく、意味が不安定であるのに対し、数学の言語は、公理に基づき一貫性や意味の安定性を持つが100%正しく直感的に解釈することはできない。「地球の表面は球形である」と人間の言語では言えるが、数学の言語では、球形と言うなら、地球に山などあってはならないわけだ。「宇宙の『本』は『数学の言語で書かれ』ているだろう」とは、ガリレオの言葉である。一方、今日のAI時代のテクノロジーが数学的、抽象概念を積み重ねた上で成り立っていることは事実だ。ますます数学的思考が重要となっている事は間違いない。
著者は、「数学を使って直観を発達させる。数学は私たちを取り巻く世界の直感的理解を広げる」「数学的直観は完璧にはならないが、生涯にわたり、論理と数学的真理によって磨きをかけ、調整し、成長させることができる」「数学は宇宙の言語ではない。数学は私たちが指さして示せないものを明確かつ、正確に語るための言語である。推論と科学への取り組みを可能にする言語だ。数学は良きにつけ、悪しきにつけ、人間を人間たらしめている言語である」と呼びかけている。
「生成AIが変えた世界の生き残り方」が副題。昨年11月末にChatGPTが無料公開され、驚異的スピードで広がっている。従来のチャットボットと大きく違い、私たちが普段使っている自然言語でなめらかなコミニュケーションが取れるものだ。ChatGPTは文章を自動で生成するAIだが、画像や音楽などを自動で生成する「生成AI」の進展スピードはさらに速くなる。開発元は「オープンAI」で、AIが自然言語を処理する「大規模言語モデル(LLM)」をアップグレードしてきた。
「生成AI戦国時代、マイクロソフトの猛追」――。AI開発において遅れをとっていたマイクロソフトが「この分野こそは」とトップを走ろうとし、グーグルがさらに巻き返しにかかり、今年2月には対話型AI「Bard」をテスト公開、Chat GPTよりも最新の情報で回答しようと意欲的だ。メタ・プラットフォームズやアマゾンも加わり、覇権争いは加熱していく。中国もだ。日本の開発は遅れをとっているが、大企業などの生成AIの活用は「効率化を図り、アシスタントとして使われる」こと必至である。「尤もらしい回答に過ぎない」「生成AIは理解しているわけではない」ことを十分踏まえ、著作権等の諸問題、さらには、人間の頭脳に及ぼす深刻な影響に教育面等からの本格的対処が重要となることは言うまでもないが、テクノロジーの進展はとどまることはない。
「生成AIは私たちのビジネスや仕事を破壊するのか」「クリエイターの仕事は生成AIに奪われるのか」「言葉や文書を多く使うホワイトカラーの業種や士業はどうなる」ということを、本書は詳述し、要するに「AIに仕事を奪われないためには、AIを使いこなすこと」「生成AIという有能な副操縦士を使いこなす『機長』になろう」と言う。そして機長であるために重要なポイントは、①最終チェックは、現時点では人間の役割②常に「差分を問う」スタンスを持つーーを示す。「差分」とはテクノロジーの差分だ。そして指示されたコードを書いてるだけのエンジニアは淘汰され、「価値が高まるのはビジョンを描ける人」と言う。
そして「日本語というマイナー言語ゆえの不利さ」はあるが、「日本の強みが活きるのは『遊び』のサービス」「画像生成AIの活用に日本企業の勝機がある」「一定のルールを設けて業務で生成AIを利用するべき」「海外で学ぶ人材をどんどん増やすべき」ことなどを提唱している。
「日本の植物学の父」とされ、独学で研究を極め、植物知識の普及にも尽力したとされる牧野富太郎。NHKテレビの朝ドラ「らんまん」のように天真爛漫、破天荒でアカデミズムから距離を置いた在野 の研究家とされる牧野富太郎。著者は「らんまん」の植物監修者だが、「本書は、牧野富太郎の人物像を考察するものでは、全くない」「科学者として捉えるならば、人物像やそれを取り巻く人間ドラマではなく、学術的に正確な情報、検証された業績、それが与えたインパクトなどで評価されるべきである」と言い、「科学の分野なのに、業績の記述も曖昧で定まっていない」「科学者で、これほど不確かな情報が一人歩きしている人物も珍しい」と自然科学の立場から考察している。
そこから浮かび上がるのは、「時間があれば、四六時中野山に出かけて植物を採集しまくる超一流の植物オタク」「全国の趣味家に愛され慕われ、『牧野ファン』のネットワークを作り上げた人物。牧野ほど世人とともにあった分類学者はいない」「日本のフロラ研究を先導、その草分け的存在」「牧野は標本の整理をほとんどしなかった。牧野の標本にラベルはなく、各標本の植物の同定すらもほとんどされていなかった。つまり、牧野の標本は、新聞紙に挟まれて、学名もつかないまま、無造作に束ねてあっただけなのである。その整理には、教官やスタッフが膨大な時間を費やした。特に採集地の確認は困難を極めた」「牧野が一流の趣味家であることは間違いないが、こうした振る舞いは一流の研究者のものとはいい難い」と言うものだ。
そして、「重複標本を含む牧野が所蔵していた標本は、あるいは40万枚だったかもしれないが、正しくは『牧野は、約5万5000点の維管束植物標本を採集した』ということになろう」「牧野は生涯に1369の学名を発表した、というのが最も正しいことになるだろう」と調べあげている。命名した植物・集めた標本の数が未だ定まらないのが実情であることヘの答えだ。
大学や教授たちとの間の確執から東大から文献や標本の利用を止めるように告げられた時、牧野は「長く通した我儘気儘 もはや年貢の納め時」との歌を詠んだという。面白い。牧野富太郎の伝記を書いた池波正太郎は、「世の中に息をしている限り、どんな人間でも世渡りの駆け引きに自分を殺さなくてはならないのが、常識とされているのだが、強情を通し抜いた彼は、弱いとか強いとかいうよりも、むしろ幸福な男だったといえよう」と言っている。これまた面白い。