考えてみれば人生は失敗の連続だ。参院選にしても、悔しい安倍元総理銃撃事件も。またKDDIの通信障害もごく最近のことだ。「失敗をしゃぶり尽くせる人だけが、正解にたどり着ける」「自らの正解を導く思考法を」「失敗しないようにではなく、よりよく改造し未来を創造する。過去の失敗に真摯に学ぶことが大切になる」と、失敗学・創造学を打ち立てた畑村先生は言う。
日本の産業の長い低迷の根本原因は、これまで当たり前としてきた考え方から抜け出していないことにある。教科書通り、マニュアル通りの正解主義だ。福島の原発事故は、非常用発電機が「アメリカでの脅威は竜巻であるが故に大事なものは地下に置く」を取り入れてしまったことにある。また2004年の回転ドアの事故はオランダからの技術を中途半端に使い「ドアは軽くなければ危ない」という知識が完全に消えてしまったことにある。
同じ優秀さでも、パターン認識の優等生タイプではなく、応用ができ「物事の本質」を突き詰めて考えるタイプの人が真の優秀だ。現代は、今までの思考法では通用しなくなってきている。「正解がない時代」というより「正解がいくつもある時代」となっており、誰かに言われてではなく、「自分で考えて実行する」が大事だといい、「失敗から学べる人だけが成長する」「動かないことが失敗になる、先送りの時代は終わった」という。また「挑戦することを奨励しているトップがいる組織は活気が出る」「ろくに知識がないのに、自分の権限を振りかざして若い人の動きを妨害したり止めたりする老人の行為は老害である」と指摘する。そして必要に迫られたら適切にアドバイスしコーチングする指導員(メンター)の存在が重要であることを述べる。大事なことだと思う。
畑村先生は「現地」「現物」「現人」の三現が重要であることを繰り返し述べている。三現は、五感をフルに使って観察対象と向き合うので、メディアやネットよりもはるかに立体的で情報量も圧倒的に多く、知識の定着もより強固になる。加速するネット社会、オンライン社会であればこそ、三現をより強固にしなくてはならない。だからこそ圧倒的な情報量が得られ、知識を超えた知恵が出る。未来への創造と挑戦ができるわけだ。
また現代社会で、仮説を立てるときに忘れてはいけない3つの重要な視点、①価値について考える②想定外を考える③時間軸を入れて考える――を提起する。求めるべき価値が見えずに多くの人が困惑し迷走しているのが今の日本だと危惧をする。絶対に起こらないと思われても、いざというときのために考えておくことが必要という。
三現の重要性、メンターの役割、情報は言葉によるものだけではないこと、「仮説―実行」を自分の頭を使って繰り返し、失敗経験を糧とするところに.私たちの進むべき道があると語る。
政府の新型コロナウィルス感染症対策分科会等、政府の機関でも尽力いただいた小林慶一郎、佐藤主光の両氏。コロナ対策の中で見えてきた「本来はこうすべきであった」「仕組みを変えなければ、日本は長期衰退に陥る」との観点から、極めて具体的に問題を提起し、ポストコロナの政策構想を提示する。
コロナ禍での対策を中で行ってきたわけだが、その指摘は遠慮なく鋭い。「医療以外の社会的なコストに淡白な医療エリート」「後回しになった医療体制強化の議論」「経済政策としてのPCR検査の有益性を認めなかった医療側」「ワクチン供給が間に合わなくて7月にブレーキを踏んだ政府。自治体の予約制限が相次ぐ」「乖離する医療現場と医療政策」「病床数は多いが、コロナ病床確保が進まない要因」「かかりつけ医の活用、オンライン診療を平時の常識に」「必要な診療報酬の見直し」・・・・・・。
「ポストコロナ時代に課題となる財政再建問題。中小企業等の過剰債務問題」「コロナ特別会計の必要性(別勘定で)」「社会保障のコストを賄うために必要な消費税(17%、18%にも)」「成長期待による財政再建不要論に妥当性はあるか?」「M M Tは朝三暮四の理論」「ポストコロナに向けた税財政の国際協調の必要性」・・・・・・。
「個人への給付で目立ったデジタル化の遅れ」「事後調整型にして迅速・公平な給付を行う。大学授業料の所得連動型ローンを始めとする所得連動型給付」「ベーシック・インカムや給付付き税額控除の検討」「給付のインフラとしてのマイナンバー制度」「目立った国と地方の乖離。食い違う政策と現場」「医療・介護の基幹産業化を」「デットからエクイティへ」「企業の事業構造の転換――ビジネスモデルの転換、債務処理、雇用対策」「生産性の低い企業の退出促進を」・・・・・・。
そして「ポストコロナへの八つのビジョン」として①デジタル化を促進する②医療提供体制を再構築する③リスクを分かち合う社会保障の仕組みを構築する④非常時のガバナンスを改善する⑤万機公論に決すべし⑥誰でも再チャレンジできる自由を広げる⑦将来世代の立場に立つ⑧新たなグローバル秩序を構想する――を提起する。この2年の諸問題を踏まえ、分析をし、具体的に提起している。
天皇の権威が低下したと捉えられがちな戦国時代――。後宮女房・皇女達は何をしていたのか、どういう役割を果たしていたのか。戦国時代のみならず、日本の歴史は男性の歴史であったと思われるが、本書は天皇・朝廷を取り巻く、これら女性の実像に学問的に迫っている。すばらしい研究だ。
後宮女房は、天皇の日常生活を支える「侍女」の役割を担うとともに、後宮と外部を結ぶ「伝達者」「使者」の役割も果たしていた。さらに戦国時代は、天皇の正妻(嫡妻)たる皇后や中宮が立てられなかったようで、天皇との間に、世嗣ぎの皇子をはじめ、多くの皇子・皇女をもうけていた。そうなると生母となって重きをなすことになる。
「後宮女房が記した執務日記」「武家政権との間を取り次ぐ女房たち(足利将軍・三好氏、織田信長時代の多彩な活躍、活躍の機会が減った豊臣政権時代)」「朝廷内を揺るがす大スキャンダル事件(猪熊事件など)」「戦国期の後宮女房のはたらきと収入」「将軍側近に勝るとも劣らぬ役割を果たしていた女房たち」「後宮女房の一生と様々な人生」「娘の出仕をはたらきかける実父」「周防の大内義隆に嫁いだ二人の娘、京の文化を取り入れることに熱心であった大内義隆」「その多くが出家した、皇女たちの行方」らが詳述される。大変興味深い著作。
「世界は自ら助くる者を助く」が副題。フクシマでもコロナでも、ウクライナ危機を考えても、日本は危機と有事に対する備えがあまりにも乏しいことが明白になっている。気候変動に伴うエネルギー危機もきわどい。安全保障の枠組みが根底から揺さぶられている今、「国の形」と「戦後の形」を検証し、国民が参画する危機管理という観点から新たな国家安全保障、経済安全保障、国民が危機管理に参画する国民安全保障国家を築かねばならない。ウクライナの状況を見ても、「自分の国は自分で守らねばならない」という意思が大事だ。「日本は、平時において、その法制度と規制とインテリジェンスと人的資源、つまりは国家統治を安全保障の観点から見直し、有事の体制を構築するべきである。安全保障とは、国民の生命と財産の安全及び国家としての価値の保全を保障することである」という。
本書は2020年春のコロナ危機から2022年のウクライナ危機までの2年間の論考をまとめている。各誌に発表したものだが、ウクライナ危機後の論考は書き下ろしで新しい。その「国家安全保障、レアルポリティーク時代の幕開け――ウクライナの悲劇、米中新冷戦と日本の選択」「経済安全保障、経済相互依存とネットワークの武器化――グリーン大動乱とエネルギー危機」は、ウクライナ危機以降の論考で、深く広く安全保障 の 重要性をえぐり出している。「ウクライナ 戦争 が 日本 に 問い かけて いる 最大 の 教訓 にして 最大 の クエスチョンは、自らを守ることができる国を世界を助ける、というその点にある」「これからの時代、最も恐ろしい『日米中の罠』は、米中対決の中で日本が選択肢を失う罠である。中国に日本の自国防衛の意思と能力、日米同盟の抑止力の有効性、科学技術力とイノベーションの力を常に理解させるべきである。同時に、日米が中国を全面的な敵性国と決めつけ、それが中国の排他的民族主義を煽り、双方とも後戻りができなくなる状況を避けるべきである。互いに相手の意図を正確に把握、不断の対話をすることが必要である」「そのためには、日本がより自立し、自らの安全保障に責任を持ち、日米同盟を相互依存的な責任共有の体制に進化させるべきであり、有事に国民を保護できる国の体制を作らなければならない。日本の抑止力を高めなければならない・・・・・・」といい、戦略的思考、外交力、統治力を求めている。またウクライナ問題が、エネルギー危機の始まりになることを指摘し、エネルギーの経済安全保障上の脆弱性に論及。かつサイバー攻撃力、監視力、情報統率力、諜報力の全てが脆弱であることを指摘する。さらに「国家的危機には、大きな政府と大きなビジネスが必要だ」という。
コロナでは「デジタル敗戦」「ワクチン暗黒国家」を指摘するが、「不確実性のシナリオの前に、政治家も官僚も『作為のリスク』を恐れ、結果として『不作為のリスク』を生じさせることになった」という。コロナで「泥沼だったが結果オーライ」との言葉を再三にわたって述べている。その場しのぎの"泥縄貧乏"が、構造的に日本を危機に弱い国にしているという指摘を噛み締めなくてはならない。
14歳のイギリスの少女ミアは、酒と薬に依存する母親と貧しい人々が暮らす団地で暮らし、弟のチャーリーの世話をしている。母親は働かず、子供はほったらかし。食事も衣服もままならず、チャーリーはいじめに遭っている。生活保護のお金まで母親の薬に消えてしまう有様だ。そんなミアの楽しみは図書館などで本を読むこと。ある日、100年前の日本の「金子文子」の伝記に出会う。戸籍にも入っていない無籍者、同じような薄幸の少女・フミコに惹かれ、自分の人生を重ねて読み進めていく。フミコは大逆罪で有罪、獄死したアナキスト。獄中で本を書いたという。
イギリスの階級社会では、言葉まで違ってミドルクラスにはなれない壁があまりにも大きい。重苦しい閉鎖された誰にも理解されない世界。男なしでは生きられない母親。貧困、性暴力、ネグレクト、虐待、薬物依存・・・・・・。最後のセーフティーネットのソーシャルに連れていかれても、ミアとチャーリーはバラバラにされることを極度に恐れる。広い世界の中で身を寄せ合い2人がひとつになっての孤立だ。フミコはついに自殺を図ろうとする。ミアらは逃げようとする。残酷な世界からの逃走だ。
フミコは自殺の寸前――。「あたりを見回し、私はぎょっとして立ちすくんだ。私を囲んでいる世界が、あまりにも美しかったからだ。いま飛べば折檻や空腹からは逃れられる。だけど、それでも世界にはまだ美しいものがたくさんある・・・・・・私は死ぬわけにはいかない。・・・・・・ここじゃない世界は今ここにあり、ここから広がっている。別の世界は存在する」と思い覚醒する。逃避行の果てに駅で倒れたミアは、分け隔てすることなく、ミアの素敵なリリックに感動し曲をつけてくれたウィルの「両手にトカレフ クリスマス・ヴァージョン」を病床で聴く。「ここじゃない世界に行きたいと思っていたのに、世界はまだここで続いている。でも、それは前とは違っている。多分世界はここから、私たちがいるこの場所から変わって、こことは違う世界になるのかもしれないね」「それは驚くべきことだった。そこにあるのはNOではなく、YESだったからだ。ここにあった世界には存在しなかった言葉が、ここにある世界には存在し始めている。私の、私たちの、世界はここにある」・・・・・・。どん底の生死を超え、宇宙のリズム、宇宙生命に触れた幸福感を見出した瞬間といえようか。