若き哲学研究者として、学校・企業など幅広く哲学対話を行っている。難しい哲学書とは大違い、現代社会の日常の中で感じ、思索した「手のひらサイズの哲学」「あなたと哲学したあの曖昧な時間、水中に深く潜り、頭の中で何度もでんぐり返しをするような心持ち、ぐらぐら揺れる足場の感覚が消えてしまう」瞬間をとらえて示す。哲学は「存在」「生老病死」の意味を問うことであり、答えのない世界を考え続ける人間の営為だ。正解主義の思考停止の誘惑を断ち切ることだ。数千年にわたる人類の「生」への格闘に学び、自らのものへと根を張っていくことだ。
「当たり前のものだった世界が当たり前でなくなる瞬間。そこには哲学の場が立ち上がっている」「哲学をすることは、世界をよく見ることだ。くっきりしたり、ぼやけたり、かたちを変えたりして、少しずつ世界と関係を深めていく」「何かを深く考えることは、深く潜ることに例えられる。哲学対話は、人と一緒に考えるから、みんなで潜る」「哲学対話は共感の共同体でもない。弁証法だ。弁証法は異なる意見を前にして、自暴自棄に自身の意見を捨て去ることではない。ただ単に違いを確かめて、自分の輪郭を浮かび上がらせるのでもない。異なる意見を引き受けて、さらに考えを刷新することだ。中間をとるのでもない。妥協でもない。対立を、高次に向けて引き上げていくことだ」「ヤスパースは、哲学することの根源は、驚異と懐疑と喪失の意識であると言った。驚異から問いと認識が生まれ、認識されたものへの懐疑から批判的吟味と明晰さが生じ、自己喪失の意識から自身に対する問いが生まれる」――。ヤスパースのこの言葉について、永井さんは「ツッコミと不満」を追加する。「総括して申しますと、『哲学すること』の根源は、驚異・懐疑・喪失・不満・ツッコミの意識に存している。・・・・・・バカみたいになってしまった。ヤスパースがボケになってどうする」という軽いノリで言い切ってしまう。なかなかできないことだ。
「科学の冒険は、紀元前6世紀の古代ギリシャのアナクシマンドロスの革命とともに幕を開けた」「アナクシマンドロスは、高いところに空があり、低いところに地面があるという世界を、大地は虚空に浮かんでいる、大地は宙に浮いている。空間に絶対的な高低は存在せず大地は宙に浮かんでいると洞察した。それは、西洋の思想を何世紀にもわたって特徴づけるであろう世界像の発見であり、宇宙論の誕生であり、最初の偉大な科学革命だった」という。カルロ・ ロヴェッリは、理論物理学の研究者。専門とする「ループ量子重力理論」は、20世紀の物理学が成し遂げた2つの偉大な達成、一般相対性理論と量子力学の統合を目的とした理論だ。最近読んだ著者の「世界は関係でできている」は刺激的であったが、本書は10年ほど前の著作である。「科学とは何か」について、アナクシマンドロスに焦点を当てながら、極めて哲学的に丁寧に論を進めている。この論じ方自体が「科学とは何か」を鮮やかに浮き上がらせている。感動的でさえある。
アナクシマンドロス(紀元前610年頃―紀元前546年)は、小さなポリスに分割されたギリシャ世界のミレトスに住み、アナクシメネスとともにイオニア学派の代表とされる。自然哲学について考察し、万物は水であるとしたタレスの後に続いた最初の哲学者ともされる。万物の根源(アルケー)が、「無限なるもの(アペイロン)」であるとしたが、「大地は虚空に浮かんでいる」は単なる発見ではなく、「概念上の跳躍」であり、最初の「科学革命」であったと強調する。「雨を降らすのはゼウスであり、風を吹かすのはアイオロスであるとするような、これら現象を神の意思や決定から切り離し、自然のうちにその原因を見出そうとする試みは当時には皆無であった」。神々を冒涜し、都市の若者を堕落させたとして怒りを買うが、その後ソクラテスがアテネの裁判で死刑に処せられるなど人類の歴史、科学の歴史はガリレオを見るまでもなくこれが続いた。太陽が東に出て西に沈む、蒸発した水が雨になる・・・・・・。アナクシマンドロスは知性と好奇心を組み合わせただけだが、「大地は宙に浮かんでいる」は難問で、それなら「大地が落下しない理由を説明しなければならない」のだ。アナクシマンドロスは「落下する物体は何かに支配されているということ」との思索を巡らせた。アナクシマンドロスは「自然界には法則が存在し、事物が時間の中でどのように変化するかは、この法則が確定している」と自然法則という考え方をもった。同時代にごく近くに住んだピタゴラス、そしてプラトンへと続き、コペルニクス、ガリレオ、ファラデーとマクスウェルの電磁場、アインシュタインの歪んだ時空間、シュレーディンガーの波動力学の関数・・・・・・これらはみな、現象の複雑さを統一的、有機的な仕方で理解するために科学によって提案された、感覚によっては捉えられない「理論的な実体」であり、アナクシマンドロスがアペイロンに託した役割、機能を担っているものだ。見逃してはならないのは、このような自由な知は、ギリシャの都市は王を追放し、創造者、組織者としての神への隷属から解放され、文化の交流がなされていたことによる。
「科学は世界像を構築する役割を担っている」「科学が存在する理由は、我々が限りなく無知であり、抱え切れないほどの誤った先入観にとらわれているからである。好奇心と知っていると思っていた事の問い直し、これこそ科学の探求の源泉である」という。つまり科学の探求とは、概念化された世界像を絶えず修正し、改良する過程である、というのだ。加えて大事な事は、科学の革命は単なるひらめきや先達の否定によるものではない。「事情はその反対である。既存の理論、すなわち蓄積された知に立脚する力こそ、科学が前進するための原動力である」ということだ。「科学とは、世界について考えるための方法を探求し、私たちが大切にしているいかなる確かさをも転覆させて倦むことのない.どこまでも人間的な冒険である」という。
最後に、カルロ・ロヴェッリは前ー科学的な思考について述べている。「神々に頼らずに世界を理解せよ、というアナクシマンドロスの提起。自然主義的な思考と神話・宗教的な思考の本質的な違いはどこにあるのか」を問いかける。「ベルクソンは宗教を、知の解体的な力から社会を防衛する存在として認識していた。だが、無知の解体的な力からは、一体誰が私たちを守ってくれるのだろう」と問いかけるのだ。そして、私たちの社会が理解の及ぶレベルをはるかに超えて複雑化している現在、「空虚な確かさに閉じこもるのか、あるいは、知の不確かさを受け入れるのか、選択を迫られている」と語り、カルロ・ ロヴェッリは、後者を選び、神話・宗教的思想から世界の理解を解放すること、世界を理解する方法を模索することに真摯に挑みたいと言う。
外国人との共生、共に働く日本社会を築くことは、未来を考えてもますます重要なこと。入管の実態や技能実習の現状、難民の受け入れ等について、フォトジャーナリストとして現場で相談を受け、取材したレポートと対談。
「そもそも『収容』とはどんな措置なのだろうか。仕事を失ってしまったとか、困難を抱えて学校に通えなくなってしまった、パートナーと離婚した――それは生活していれば誰にでも起こり得る生活の変化のはずだ。けれどもこの変化によって、日本国籍以外の人々は、日本に暮らすための在留資格を失ってしまうことがある」「『収容』とは本来、在留資格を失うなどの理由で、退去強制令を受けた外国人が国籍国に送還されるまでの準備として設けられた措置のはずだった。人を施設に収容するということは、身体を拘束し、その自由を奪うことであり、より慎重な判断が求められるべき措置のはずだ」「ところが実態を見てみると、収容や解放の判断に司法の介在がなく、入管側の一存で、それも不透明な意思決定によって決められていく。しかも収容期間は事実上無期限だ」と厳しく言う。そして「全件収容主義」「外国人は常に管理、監視、取り締まりの対象とされてきた戦前からの見方」を糾弾し、「難民であれ、移民であれ、在留資格を持たない者たちが一様に、犯罪者扱いされるのが日本」と言う。「人権なんてここには全くない」とし、名古屋のウィシュマさんの死亡事件、ベトナム人の女性技能実習生のリンさんが死体遺棄罪に問われた事件など現場の実態を報告する。
「長きにわたり、日本社会は内に差別と偏見を抱えてきた。私たちの社会は、未だ差別を克服していない」と糾弾する。外国人とともに地域で共に生き働く社会へ、現在、大事な時となっている。
又吉直樹と絵本作家のヨシタケシンスケによる、世にも不思議な本の物語。童話のようでもあり、中身は辛辣な比喩の物語でもあり、泣き笑いも、それぞれにオチがついて、こんな発想があるのかと「本を探す旅」に連れていかれる。本の大好きな王様がいて、もう年寄りで目が見えなくなってきている。「目が悪くなり、もう本を読むことができない。でもわしは本が好きだ。お前たち、世界中をまわって『めずらしい本』について知っている者を探し出し、その本についての話を聞いてきて、わしに教えてほしいのだ」・・・・・・。旅に出たニ人の男はたくさんの本を持ち帰る。
そして王様に毎夜にわたって世にも不思議な物語を語るのだ。よくもこんなに不思議な話が作れるものだと感心する。「第7夜」は、他に比べて長いが、絵本作家になりたいと願う少年・少女のやりとりが、なんとも切なく、また爽やかに心に迫ってくる。全体を通じて「本っていいな」と思わせる。
「カシの胸が高鳴る。これこそわたしが探していた物語だ。強く優しい母親と率直で健気な男の子。頑迷な夫の父親の気持ちをも変えていく――。ここには、日本の封建的な身分制度に近い環境があり、そんな中、逆境に置かれても子を育てる母の強い愛がある。そしてその母の愛を受け、育てられた子が古い価値観をものともせず、健やかに成長する。求めていた物語が見つかった! その興奮をカシは抑えきれず......。その日から、カシは翻訳に取り組んだ」――。若松賤子が「小公子」と出会った瞬間だ。「この一冊が、子どもたちへ、子を持つ多くの母親たちへ、そして児童文学という新たな道を開く嚆矢となると信じていたに違いない」と語る。
幕末の1864年、会津で生まれ、戊辰戦争を生き延びた孤独な少女・松川カシ。かぞえ8歳、横浜の大川の養女となる。寄宿学校のフェリス・セミナリーに移り、学び、受洗する。「女性が、自らの意志を持って、羽ばたいていることだ。堂々と大きな翼を広げ、時に雛鳥の私たちを包み込み――それは誰かの強制ではなく、慣習でもない。志を持った、凛としたその姿だ」・・・・・・。カシはキダー先生の姿に、女性の自立と子供の幸せを希求し、女学校フェリス・セミナリーの先生となっていくのだ。そして明治の文学者、翻訳者として歩み出す。肺結核に侵されながらも、翻訳者として、教師として、母として懸命に生きる姿は、美しさを通り越して壮絶だ。療養のために住み、ひと時も休まず仕事をしたのが王子村下十条。なんと私の地元。「命を燃やし尽くした31年の生涯」とあるが、全くその通り。「未だに女性の地位は低く、権利も得ていません。でも、わたしが語りかけたこと、してきたことが、未来につながればと思っています」とあるが、その一筋の道は間違いなく時代を切り開いている。