「悪は多けれども、一善に勝つことなし」と言うが、「悪は厳然と存在する」し、「悪というのは美と同じほど、人々を興奮させるのだ」――。凄惨な殺人、強盗、権力者の悪徳、目を背けたくなる動物虐待、貧困という悪、虚栄・・・・・・。西洋絵画から、中野京子さんが「できるだけ珍しい絵画」を紹介する。あの有名画家がこんな絵を描いてるんだと驚くこともあった。
ウィリアム・ホガースの「残酷の4段階」――殺伐たるエッチングでトム・ネロの犬虐待シーンから始まる。アレクサンドル・カバネルの「死刑囚に毒を試すクレオパトラ」ーー実弟と死闘を広げ、暗殺未遂を幾度も経験し、政争を切り抜け、強大な新興国ローマと駆け引きして、王朝とエジプトの富を守らねばならなかった宿命の女性クレオパトラが冷然と死にゆく死刑囚を見る。ジャン=レオン・ジェロームの「古代ローマの奴隷市場」――女性が全裸にされ恥ずかしさに顔を隠す。購入を希望して手が上がる生々しい絵画。
ジャン・クーザンの「エヴァ・プリマ・パンドラ」――あのパンドラの箱。パンドラの夫についても解説している。ジョット・デイ・ボンドーネの「ユダの接吻」――裏切り者ユダ。ルネサンスに先鞭をつけたボンドーネのフレスコ画の傑作。「ユダはなぜ裏切り者になったのだろう?・・・・・・聖書の簡潔な文体で書かれた人間心理の複雑さと底知れなさ、それを絵画化する天才的な画家の表現のみごとさに、裏切り行為すら魅力的に見えてくる不思議」と言っている。この表現も見事。
ジョン・メイラー・コリアの「犯行後のクリュタイムネストラ」――神話中で、屈指の悪女と言われるクリュタイムネストラが、夫の王と愛妾カッサンドラを殺して「傲然と顎を上げて『見得を切る』」。凄まじい作品。本書の表紙となっている。
イタリアの巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオの「鏡の前の女」――虚栄図と言う。「美女は2度死ぬ」。残酷な時の流れに抗える者はいない。フランシスコ・デ・ゴヤの「駅馬車襲撃」――18世紀スペインにおけるハイウェイマンの恐怖を描いている。フレデリック・レミントンの「森へのダッシュ」――新大陸における旅のリスク。素晴らしい疾走感が伝わってくる。
レンブラントの「目を潰されるサムソン」――怪力のサムソンの両目を抉る瞬間。ジョージ・グロスの「社会の柱」――1枚の絵の中に、悪徳政治家、不道徳で腐敗し切った醜悪な貴族、ジャーナリスト、聖職者を風刺する。
ウジェーヌ・ドラクロアの「サルダナパールの死」――凄惨な巻き込み自殺。王が愛妾も愛馬も召使いも、貴重品も決して敵に渡さない。死への道連れだ。母親が子供を道連れにして、心中するのも「この子のしては死ねない。かわいそうだ」の感情。ルーク・ファイルズの「家もなく食べものもなく」「救貧院臨時宿泊所の入所希望者たち」――貧しさが寒さの中に迫ってくる。
いつもながら、中野さんの見事な解説で、名画が身に迫ってくる。