作家、探検家、極地旅行家、北極圏単独行など著名な角幡唯介さん。易しく語っているが、これは哲学書であり、「生きる」ということ、「生と死」の究極を突き詰めている。通常の評論家ではとても及ばない実践者のみが行き着く境地を覗く思いだ。
「生が本来接続されていなければならないもの。それはいったい何なのか。この時の私はそれを何か<基盤的なもの>だと感じた。私たちの生を満たす存在の基盤。北極であれば、それは北極を北極たらしめる何かだ。でも北極ではなくても・・・・・・あらゆる土地、あらゆる空間に充ち、私を含めた、あらゆる存在と自然界の間を流れつつ、それらを生かし、結びつける働きをする流動的な何かである。この旅以来、私はこの<基盤的なもの>が何なのか気になり始めた」「そのように10年以上、おのれの行為を真摯に追求していると、時折、事物との距離が喪失し<基盤的なもの>と同化する瞬間が訪れる」「言葉=地図=認識の向こうに流れる<実在の精髄(三島由紀夫)>は、行為をもって初めて届くことができる。それは極めて身体的な感覚だ。三島はそこに到達することを望んだが、しかし、その方法論を死の他に知らなかった」「アマゾン川がアマゾン川たる所以ともいえるその巨大さ、豊饒さ、懐の深さに入り込み、彼はそれと一体化する。・・・・・・この行為と表現の中に開高健とアマゾン川の至高ともいえる調和が実現している」・・・・・・。あるところまで行った人のみが実感できる境地。宗教、哲学の境地が開示され、「実在の精髄に触れ得た瞬間」の喜びとして語られる。
書くことの不純――命がけの探検行のさなかに聞こえるのは、表現者としての悪魔のささやき。「私はこんなことを考えた。もしワイヤーではなく、川を泳いで生きのこったら、そっちの方が話は面白くなったんじゃないか? そして、こんなことを考えている自分にゾッとした」・・・・・・。「行為は純粋で、表現は不純である」と言うが、文章を書く探検家でなくても人間は演技をする不純さを持つ。加藤典洋「日本人の自画像」の「内在と関係」の概念を使う。「本書は基本的に行為(内在)は純粋で、表現(関係)は不純だとの立場に立っている」と言う。
「なぜ山に登るのか」――。役に立つでもなく、有名になりたいでもなく、無意味なことを行う内側からき上がってくる抑え切れない情動がある。「羽生の純粋と栗城の不純」「登山の常道と自分の山」など胡散臭い登山をやっている者を区別する。「<内在>によって生きなければ、人は本物に到達することはできない。<関係>が最初に来るとダメなのだ」。ヴォイテク・クルティカの凄さを「冒険芸術論」で伝えてくれる。感動する。
「生の届かなさをいかに解決するか」――三島由紀夫の考え、「はみ出し理論」を通じて、「実在の精髄」「基盤的なもの」に迫る。
登山、探検の極限を通じて「生きるということ」「行為」の行き着く境地を描く。凄みのある著作。