ハリス来航以来、幕府は突然に朝廷の勅許を得ようと動くが、「幕府には天下を治める自信も実力もないのだ」と、全国の大名たちに思わせる結果となってしまう。「それに乗じて、とりわけ西国の神社の宮司や神官や尊皇派の国学者や水戸の学問に染まった武士や煽動者たちが活動を始めて、朝廷を擁する京で遊説を繰り広げたのでございます」・・・・・・。将軍継嗣問題は紀州派の勝利となり、井伊直弼は大鉈を振るい始め、安政の大獄となる。
お登勢を妻に迎え、薬売りとして一本立ちした弥一は、薬種問屋「高麗屋」の主・金兵衛から、京でニ、三年暮らして経験をさらに積むように言われる。安政から万延に変わる直前の3月3日、桜田門外の変が起きる。彦根藩は水戸藩に復讐しようとする。しかし尊王攘夷の勢いは増す。一方で、「公武合体 開国策」「和宮降嫁」が進む。そんななか島津久光が兵を率いて上洛し、天皇を奉じて幕府と対決するとの噂が流れ、京は騒然としていた。
「西国の激派の間では、いつの間にか尊王という言葉が勤皇に変わってたんだ。尊王は帝と朝廷を尊ぶことで、心の有り様ですが、勤皇は天皇に仕えることになり、幕府には勤めないという一種の反幕宣言になる。行き着くところは倒幕でございましょう」「久光様には、倒幕等という考えは毛頭ない」「薩摩藩をお取りつぶしにさせてはならない。藩士たちの軽挙妄動を未然に阻止するため、どうしたらいいか」・・・・・・。弥一、高麗屋の跡取りの半兵衛、京油小路の老舗薬種屋「一貫堂」に移った長吉、才児らは薩摩藩御製薬掛目付であった旧知の園田弥之助らと連携をとって情報収集をする。「時機はまだまだ熟していない。なんとしても、薩摩の過激派武士にことを起こさせてはならない」・・・・・・。
勤皇攘夷の嵐はますます吹き荒れ、寺田屋事件、幕府の綻び、生麦事件、馬関砲撃、薩英戦争、八月十八日の政変となる。「勤皇攘夷派の諸藩士が去り、王政復古派の公卿が去った京には、一気に公武合体の機運が漲り、倒幕派の勢力は京から一掃されたのでございます」・・・・・・。
「長州激派の御所に火をつけ帝を長州へ連れ去る。一橋公と会津侯を殺す」との計画に驚愕した会津藩、桑名藩そして新撰組は「6月5日に三条木屋町の旅籠『池田屋』で、首謀者たちが集まる」ことを突き止め襲撃。池田屋事件だ。そして禁門の変。「薩摩藩には恩がある。我々にはどんなことをしても薩摩藩経由の唐薬種が必要だ。尊王攘夷、佐幕開国。そんなことはどうでもいい。・・・・・・全国津々浦々で何十万、いや何百万もの人々が、富山の薬を待ってくれている。富山の薬と、『先用後利』という商いの方法はニ百年近く、この日本を支えてきたのだ。その富山の薬を支えてくれたのが薩摩藩だ」・・・・・・。「京の大火は下京のほとんどを焼き尽くしました」・・・・・・。
動乱の京都を命をかけて走る富山の「薬隊」。火の粉の中を右往左往、逃げる庶民の姿は生々しい。