全盲の天才学者・塙保己一(1746〜1821)。武さしの国保木野村に生まれ、幼名は寅之助(失明後は辰之助)、体は弱く8歳になる前に失明。15歳で江戸に出て、当道座の雨富検校に入門し千弥、やがて保木野一、保己一と改名する。不器用で兄弟子等にいじめられ自殺等も図るが、学問への思いは強く、驚異的な記憶力、洞察力で次第に認められる。文政2年(1819年)には、「群書類従」666冊を完成させた。34歳の時に決心し、実に74歳までの41年かけての凄まじい大事業をなす。文政4年(1821)には、総検校となる・・・・・・。
しかし、本書はその偉業を称える偉人伝ではない。「見えるか保己一」――。輝かしい経歴を築いていく保己一の葛藤と、その周りに渦巻く愛と献身、嫉妬、妬み、不安、怒り、そして人間の業が描かれる。それも立体的に、そして深く。若い作者がよくぞここまでと感嘆する素晴らしい力作だ。
保己一には「見えない悲しみと苦しみ」、「見えてしまう悲しみと苦しみ」がある。不器用で鍼灸は下手だが、学問は得意であり喜びだ。目明きに負けない、盲の世界に引きこもらない世界で生き、卓越したところまで行くことを望んでいる。「思えば己は、故郷の村を出た日から、目明きと同じ土俵に立つことを願って一心にやってきた。目明きと同じところに上がらなければ、目明きと肩を並べて学問を学ぶことなどできやせぬ。だが己は今日、学者としてあの将軍様に対面してきたのだ。・・・・・・己は、ようやっと盲の頸木から解き放たれたのだ」「鍼でも按摩でも見世物小屋の芸人でもなく、学者として残された盲の名前は、これから先、盲の道標となるであろう」・・・・・・。同時にその心中には、怒りも溢れた。「俺は盲なんだぞ。なのに皆、ことあるごとに聞いてくる。『見えるか辰之助。見えるか保己一』・・・・・・俺にばっかり聞いてきやがってさ。そんじゃてめえらはどうだったてんだ。俺のことをちゃんと見ていたかい」「皆は、俺に心眼で見えていて欲しいのさ。皆が寄ってたかって俺をこしらえる。・・・・・・お前らが見えていないように、俺も見えていねぇに決まっている。目明きも盲も一緒さ。どちらであっても、何一つ見えちゃいねぇのさ」・・・・・・。
一方、「見えない」保己一に対する周りの妬みやいじめ、策略も激しかった。閉ざされた盲の世界で、兄弟子からの仕打ち、やっと完成させた版木蔵への火付け、妻の密通・離縁。妻はただただ学問に没頭し、金を注ぎ込む保己一を理解できずすれ違った。盲の兄弟子たちは、「あなた様は頭が良くていらっしゃるから・・・・・・。でも、あなた様以外の盲は学問などできませぬ。我らは鍼に按摩に琵琶に高利貸しにしか生きる術がないのです」と、目明きの世界で生き抜こうとする保己一とは、世界を異にした。
またいつでもどこでも、母や師匠の雨富検校、南町奉行となる根岸肥前守鎮衛、大田南畝、お瀬津、金十郎など、まっすぐに生きる保己一を献身的に支える人に恵まれた。
宿業と人間模様----全盲の天才学者・塙保己一の姿が描かれる。表紙はそうした図を見事に表していると思う。
