蝦夷を切り拓いた「飛騨屋」初代・武川久兵衛、見事な湊を造り上げたニ代・久蔵。この下巻は久蔵の急逝により跡を継いだ三代目の亀之助、四代目・格之助の話。亀之助はわずか6歳だった。後見人として所左衛門の息子・富久が前面に立つ。本店がある飛騨湯之島で長じた亀之助はかつて足を痛めたせいで、杣たちと山を歩くことはできない身だったが、一日も早く蝦夷へ行こうとする。そして蝦夷の地に踏み込むが、次から次に障害が押し寄せる。
その根源となるのは、松前藩の無理難題。飛騨屋を顎で使うばかりか、莫大な運上金を取り上げ、さらに事あるごとに数千両単位の貸金を積み上げる。自然を愛し優しい夷仁(アイヌ)を弾圧し続ける松前藩。加えて「飛騨屋」大畑店の主・嘉右衛門は侍と結託、役人と飲み食いの接待三昧。多大な借金を作るばかりか、亀之助を追い落とそうとする。「嘉右衛門が松前藩に伐木をお願い出たんじゃ。----倍安(亀之助)は、ようやく今になって嘉右衛門のしたことが見えてきた。嘉右衛門は松前藩の蠣崎や湊と遊興し、金子を渡しているうちに、すっかり一味となったのだ」・・・・・・。あまりに、ひどい男と松前藩が描かれ、こちらが腹が煮えくり返る思いになる。「なぁ与惣さ。蝦夷は、人を騙してどうとも思わぬ侍どもがへばりついとる。子らの生い立つ先を考えればの、貧しゅうても間違うたことはしとらんと言うて育てられる飛騨へ帰りたいのう」・・・・・・。
安永2年(1773)、飛騨屋は、絵鞆、厚岸、霧多布、国後を20年5400両の運上金で請負い、漁撈をすることになる。飛騨屋も材木に代わるものとして塩鮭を思いつく。中心となる場所は厚岸。厚岸夷仁たちが飛騨屋で働くようになる。しかし松前藩の策謀は続く。
「飛騨屋は天領の鷹じゃ。鷹はここと見定めた時は迷わず飛ぶ」――倍安は藩を訴え公訴する。これに勝ち、倍安は飛騨屋を格之助に譲る。松前藩、侍たちの騙しに次ぐ騙しは続いた。天明年間の田沼意次による蝦夷の御試交易も失脚により沙汰止みとなる。
寛政元年(1789)に起きた国後目梨の乱。夷仁の蜂起。松前藩は、これを夷仁を酷く扱ったと飛騨屋のせいにした。歴史に名高いアイヌによる最大・ 最後の大乱だ。「もういい加減、我慢がならん」----蝦夷を諦め、幕府に訴える決断をする。裁決で丹後守は、「国後目梨の乱に飛騨屋の咎はない」とはっきり言う。飛騨屋は蝦夷の山を諦め、拓いた海さえも取られた。藩への貸金7万両以上。90年にわたった飛騨屋の蝦夷での日々は終わる。莫大な借財も残った。
100年かかって、ここまで来た飛騨屋は湯之島へ帰る。そこで30年、「飛騨屋が矢面に立って山を仕切ったことで、飛騨川の九郷は材木から、年3000両もの金子を得られる地になった。飛騨のすべての村々が杣として立っていける働き口を飛騨屋は作り上げたのだ」・・・・・・。
「飛騨屋は天領の鷹じゃ」「飛騨の杣は気長に慎重に」――壮大な志高き人々の生き様が北海道を切り拓いたのだ。
