1780402164950.jpg大日本帝国憲法がいかに作られたか。起草者の井上毅の生き様と格闘、日本が立憲国家として歩み出す過程を描いた大変な力作。

「熊本で陪々臣の三男に生まれ、絢爛の辞をもてあそび、秀才にしかなれなかった男に何ができたか」――。井上毅は肺を病むほどに学び、法制官僚として大久保利通や伊藤博文らに見出されていく。長くなさそうな命を懸け、該博な知識と美しさと力強さを備えた言葉作りの能力を発現。しかも直言直行、ひたすら仕事に専念した。「至善完美の憲法は、自分のほか作れるものはいない」と、個性豊かな政治家や官僚たちと対峙、協力しながら、立憲国家の骨格を築き上げていく。まさに明治の国家づくり、草創のドラマが描かれる。

莫大な経費がかかる洋行に井上毅を抜擢したのは、江藤新平。フランスで学ぶうち毅は、「法は美しい。法は人を守るためにあり、また人を律する」「何人をも害するなかれ。法の要諦はこの一言に尽きる」「一日も早く『文明国』の体裁を整えねばならぬ」「法を編むとは、国家を造ると同義だ」「国家の横暴から人民の権利を守護する。これぞ憲法ただひとつの意」と思う。

「プロイセンか、イギリスか」――。天皇、国体をどう確立するかが最重要課題となる。憲法は国体を定めるものであり、西洋法を引き写すだけでなく日本の伝統に立脚せねばならない。大隈の意見書はイギリス流。「君主は統べて治めず。確固と君臨しつつも、行政は全て議会の多数党に委ねる慣例」。プロイセンの憲法は、「君主と行政の権が強く、さりとて議会にも一定の権がある」「国王が主権を保持し、その行使を万全にするために、議会の承認を必要とする制度」だ。毅は、「守るべき君権、広げるべき民権」の中庸を踏まえ、「欽定憲法」「軍の統率、宣戦講和、条約締結、大臣以下高官の任免を天皇が行う」と考える。「憲法があれば、ニ千年を越えて存続する天皇の機能は侵されない。同時に、ニ千年にわたって統治の対象でしかなかった人民は、民選議院を通して政治に参画する」とした。憲法を担当する伊藤博文は、考えの違うイギリス流に立つ大隈を追い落とす。そして10年後の「明治23年を期し、国会を開き、付随して制定される憲法は天皇自ら栽する」と詔勅は宣言した。

条約改正問題、民権派の台頭と攻撃、政府に対する議院の権限、教育勅語・・・・・・。激しい政争のなか、憲法は次第に形になっていく。その中核に伊藤博文のもとの毅がいた。井上毅は宮内省図書頭から転じ、法制局長官、兼任で枢密院書記官長となる。

憲法の76条の各条文の詰めの議論、憲法が要請する国制を支える議院法、選挙法、会計法、貴族院令などの付属法の審議、それに絡む激しい政争・・・・・・。全くの白地から憲法を作り、制度を作る。壮絶な戦いがどれほどのものであったかが伝わってくる。暗殺もある。

そして明治22211日、紀元節の日。憲法が発布される。黒田清隆総理大臣、伊藤博文枢密院議長、井上毅枢密院書記官長、毅の前に現れた総理大臣秘書官の牧野伸顕。

「君主は、国民の良心に干渉できません。勅語にて徳を教え諭されるのであれば、これを国民への命令ととられないよう細心の注意を払わねばなりません」とする毅の教育勅語への貢献も意義深い。

制度を作った根源的な精神、時代の変化の中で動かされる運用・・・・・・。「大日本帝国憲法は、いっときに絢爛と輝いた法だった。そして国中の至るところで起こった憲法の軽視や無視、曲解によって色褪せ、光を失ってしまった」と描いているが、憲法と諸制度を作らんとするその志や激しい議論、国を背負う気概、圧倒的な熱量は凄まじいものだと深く思う。とてつもない重厚な労作、力作。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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