大阪近郊の町にある「あかつきマーケット」の閉店が決まる。そこのぬいぐるみのマスコット・あかつきんが失踪したことが話題となるが、突然現われては人助けをしているという。この町のごくありふれた人々の日常を人物をリレーしていくように描く。14編のリレー短編集。
ごくありふれた家族や仕事――。それぞれ何気ない言葉に傷ついたり、家庭内のふとしたことで会話が閉ざされたり、引っ込み思案で「友だちがいない」と悩んだり、葛藤もする。ひとりぼっちで心細くもなる。「すごろくに似ている、と思っていた。この世に生まれ出たら最後、さいころをふり続けて前に進まなくてはならない。だけど、このすごろくにあがりがない。・・・・・・みんな、際限なくいろんなことを言う。悪気なく。そう。悪気はないのだ、みんな」「この子は『普通』じゃないんだろうか。『普通』って、いったい、なんだろうか。普通は、普通は、普通は・・・・・・」「そう。未来も、心も、身体も全部、自分のもの。他人の期待に応えるために生まれてきたわけやない。他人に渡したらあかん。"いい子"になんてならなくていい」・・・・・・。
「あかつきん」は知るのだ。「着ぐるみを纏って街を歩いていると、具合の悪そうな老人や迷子の子ども、そういった人々のことがまっさきに目に飛び込んできた。もめている人たちや、困っていそうな人なども。ちょっとした親切。そういうことが、昔からあまり自然にできなかった」「たくさんの人がここで生きているんだと知った。以前は俺以外のすべての人は俺よりずっと強くて大人、たくましく人生を楽しんでいるように見えた。でもそうでもないのかもしれない。もしかしたら俺だけじゃなく、多くの人が見えない着ぐるみを着て生きているのかもしれない。弱さやあさましい気持ちや泣きごとや嫉妬を内側に隠して、他人には笑顔を見せている」「朝は明るく、夜は暗い。それはただ地球がまわっているだけのことだ。明るいことに良い意味も、悪い意味も、含まれていない。ただの朝と夜だ」・・・・・・。
「あかつきん」という"ゆるキャラ"と"着ぐるみ"が、終わりのない日常を「ばあちゃんはもうじいちゃんの一部になっている」という人間のポジティブで温かな縁と感慨の世界に誘う。
学者として生涯かけて貫いてきた骨太の主張が、講演という形で解り易く熱く語られる。「人類の欲望はもはや、おしとどめることはできないのかもしれない。明治以来憧れてきた欧米の『物質エネルギー文明』は自然を収奪し、人間存在そのものの足元を突き崩し始めている。『生命文明の時代』を創造し、『収奪文明から共生文明へ』と舵を切らないことには、人類としてのホモ・サピエンスは絶滅するしかないのではないか。地球温暖化は危機的様相で進行している」という。
「牧口常三郎創価学会初代会長の『人生地理学』『地人相関論』こそが地理学の王道」「巨大な稲作漁撈を背景とした長江文明があった。パンを食べて肉を食べてミルクを飲むという欧米の畑作牧畜文明が世界を席巻していたように思われるが、米をつくり発酵食品をつくり、魚を食べる稲作漁撈文明が重要だ」「天と地の交流と結合の懸け橋としての山は稲作に必要不可欠な『水』の源であった」「4200年前の気候変動(寒冷化)で東アジアの民族大移動が起き、長江文明は崩壊した」「日本神話と長江文明には深い関係がある」「富士山への信仰は、生命の『水』への信仰。環太平洋の人々も生命の『水』の循環を大切にした」「蛇信仰、注連縄(しめなわ)は蛇。森がなくなると蛇信仰がなくなっていく」「女性原理の文明と男性原理の文明」「縄文は文明だ」「動物文明と植物文明」・・・・・・。
「稲作漁撈文明が地球と人類を救う」「生命の『水』の循環を守る文明へ」――地球規模の危機を把えての文明論。いずれの講演もきわめて深く重要だ。
「芸術する体と心」が副題。ルビンの壺――デンマークの心理学者、エドガー・ルビンが考案した多義図形で「白い部分を見れば壺に見えるが、外の白い部分を見れば顔に見える」もの。二つの見え方は、せめぎあうように入れ替わって、同時に両方を見ることができないのも特徴だ。「壺に限らず、どんな物にもさまざまな側面があって、同じ物を見ても、視点によって、人によって見え方は違う」「凝り固まりがちな人間の物の見方をぐるっと反転させるところに、アートの『ツボ』が隠されているのではないか」「大胆に一般化するならば、サイエンスは『!』を『?』に変えてその答えを追及していくもの。アートは『!』をかたちや音に表現していくもの」「『!』を感じるこころと『?』を探すこころを磨くことが肝心」という。じつに面白く深い。「頭で考えるより五感を鍛えて感じて生きる」「生命の豊かさ、楽しさ」が滲み出るエッセー集。
齋藤亜矢さんは、京大理学部を出て大学院は京大医学部、それから東京藝大大学院美術研究科で博士課程(博士(美術))、しかも大学の研究室(霊長類学)でサルを観察していて崖から落ちて背骨を骨折、高校時代には網膜剥離で右目を失明。見方、感じ方は、異色の研究者という域をはるかに超えている。「感性は、言葉や観念でなく、からだを通した体験からしか生まれない(サイエンスの視点、アートの視点)」「アーティストは、新しい切り口で世界のおもしろさを切り取って見せてくれる(チンパンジーとアール・ブリュット)」「『なにか』を別の『なにか』に見立てるという想像力が芸術に深く関わっているのではないか。見立てるコツは視点をずらす(手の想像、目の想像)」「ほんとうの自由とは、あらかじめ与えられた状態のことではなく、自分で(とらわれていた)枠をこわすプロセスにこそあるのではないか(自由と不自由)」「美しいものに畏れを感じる。恐ろしいものを美しいと感じる。美しいと怖いはどこかとても親和的(美しい、怖い)」「これまで理学、医学、芸術学、教育学と立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。人ごとにさまざまな視点があり、見える景色がまるで違う。・・・・・・ときには木を見たり、森を見たり、自在に視点を変えられる目をもっていたい(木を見る、森を見る)」「三次元を二次元に投影する絵画の技法が、人間の視覚の特性を反映して発達した。・・・・・・立体視と動物の目の位置(二次元と三次元)」・・・・・・。
アートとサイエンスの交差する場で、「芸術する体と心」「五感で感ずる」ことが、いかに根源的で面白く楽しいか。とてもいい。
江戸時代の末期、九州の豊後・日田の豪商・広瀬家の8男として生まれた儒学者・漢詩人の広瀬旭荘。長兄が詩人として著名な広瀬淡窓、家業を継いだのが兄・広瀬久兵衛。淡窓は温和で平明な詩を作ったが、旭荘は才気横溢の詩を作ったといわれる。旭荘の詩を斉藤松堂は「構想は泉が湧き、潮が打ち上げる様、字句は、球が坂をころげ、馬が駆け降りる様。雲が踊り、風が木の葉を舞き上げる様だ」と評したという。しかし、旭荘には情があふれる一方で、胸の裡にいつの間にか憤懣が溜まり、炎が吹き荒れ、苛立ちのあまり妻を打擲。はじめの妻は、去ってしまう。悔恨と自己嫌悪をもつ旭荘の下に2度目の妻・松子が来る。松子は、激情にかられ暴力を振るうこともある旭荘の心の奥底に優しさのあることを感知し、支え続けた。葉室麟の描く、至高の夫婦愛は心に激しく迫る。
旭荘の生きた時代は、幕府の衰えに天変・大火・飢饉が加わる不安定な天保、そして激動の幕末。日田を拠点としつつも、上方へ、江戸へと旭荘の舞台は移る。そこで遭遇する大塩平八郎の乱(天保8年、1837)、蘭医・緒方洪庵の滴々斎塾、田原藩・渡辺華山や高野長英らの逮捕(蘭学者を弾圧した蛮社の獄)、禁令が頻発される水野忠邦の天保の改革とその挫折・・・・・・。それらは旭荘の人生に直接、影響した。
「ひとは才において尊いのではない。人は慈しむ心において尊い」「ひとはおのれが手にしているもののことは思わず、持っていないもののことばかり考えてしまうようだ。わたしは、そなたを娶れて幸せであったと思っている。ほかの女人のことを考えたことはない」「わたしは妻のことだけを案じて泣く小人なのだろうか」「ひとりを懸命に救おうとするひとが本当に多くのひとを救えるのではないかと思う。ひとりを救わずに多くのひとを救うことはできないのではないでしょうか」「旦那様、話を聞かせてくださいまし・・・・・・桃花多き処是れ君が家 晩来何者ぞ門を敲き至るは 雨と詩人と落花となり」・・・・・・。松子の思い出を書いた「追思録」を旭荘は晩年に至るまで手元に置き続けたという。追悼 葉室麟。
「財政(赤字)」「異次元の金融緩和」「デフレ脱却」、加えて「電子・暗号通貨の流通」「キャッシュレス化」「MMT」などが話題となる新時代――。本書はあらためて「貨幣とは何か」を問い直す。しかもそれを「歴史から経済学的な知見を導き、検証」する。「貨幣から見る歴史」にも「歴史から見る貨幣」にもなっている。経済から見て貨幣とは何か、国家から見て貨幣とは何かである。
663年の白村江の戦いでなぜ倭国軍は敗れたのか。めざすは中央集権国家の樹立。広範囲に及ぶ安定的な統治があるとき、政府発行の貨幣は、貨幣としての役割を十全に果たすことができる。白村江の敗戦はまさに中央集権国家「日本」のはじまりであり、日本における貨幣を生むことになった。無文銀銭からはじまり、初の政府鋳造貨幣としての富本銭、初の本格的流通となった和同開珎プロジェクト、そして皇朝十二銭の消滅で古代貨幣史はひとまず終焉する。「新貨が旧貨の10倍の価値」では貨幣にとって最も重要な信頼を失い、稲や布での取引を行うようになった。平安時代後期の銭不在の時代だ。宋、明からの渡来銭、不足する銭とデフレーションの時代を経て戦国時代へ移るが、常に問われるのは「政府負債の発行と、それに耐えるだけの信用」の問題だ。
江戸時代は支配力を持った政権が浸透し、金融価値と名目貨幣を分離させ、貨幣発行益を得ることになる。元禄の改鋳により、日本の貨幣制度は「政府が発行し(政府負債であり)」「原材料価値と額面価値が無関係で(名目貨幣であり)」「誰でも貨幣として受け取るから貨幣として流通する(循環論法に支えられる)」に踏み出す。元禄、正徳、享保、元文、家斉・忠成のそれぞれの改革(失敗も)を経て、幕末は通貨問題・国際為替問題・金流出に苦闘する。政府発行の貨幣の強みは「納税に使えること」であり、政府発行益を手にできるのだが、「政府負債、名目貨幣、循環論法」の3つは重要な要素だ。
「貨幣とは何か」を歴史の変遷を通じて掘り下げ、現在の「財政」「金融・財政政策」「仮想通貨」の本質を突く。きわめて面白く秀逸だ。