2019年、螺旋プロジェクトのなかの一作―。8組9名の作家陣が古代から未来までの日本を舞台に、「海族」と「山族」が対立するというテーマで描いた競作企画。この「死にがいを求めて生きているの」は朝井リョウ氏が「平成」を描く。
「逃げる中高年、欲望のない若者たち」といったのは村上龍だ。たしかに、昭和の時代までは「食べることに懸命」「生きることに必死」という時代だったが、平成の時代の「デフレ」「災害の頻発」「そこそこ幸せな日本」のなか、「生きがい」が語られるようになった。
本書は、性格の全く異なる親友2人の青年期の交わりが描かれる。堀北雄介と南水智也。周りを囲む坂本亜矢奈、前田一洋、安藤与志樹ら。堀北雄介は血気盛ん、対立をつくり注目を浴びることで存在を確認したい。「いつも手段と目的が逆転している」「喋って満足するだけのおままごとはもう終わり」「無理やりターゲットを見つけて、反発する理由をどうにか生み出して、対立構造作ってハブる。そうでもしないと生きがいがなくなっちゃう」「煙が上がるような摩擦がないと、自分がどこにいるか自分で確認できないあの感じ」――。平成はそれに抗して「ナンバーワンよりオンリーワン」といったが、「人間は、自分の物差しだけで自分自身を確認できるほど強くない」。全く堀北雄介とは逆の冷静で平衡感覚をもつ性格の智也も、雄介をなだめながらも自身の内に同種のものがあると思うのだ。
自分の存在を実感する。人と人、人と人の間としての人間。その存在の課題が微温的、デフレ社会の内に不安と不満をため込む。智也は今、植物状態、雄介はそれを献身的に見守る。そこにも存在を実感するための歪みがある。後半から最終章に至るまで緊迫感がいや増す。
大変な事態となっている。副題は「限界家族」をどう救うか。8050問題――80代の高齢の親が、50代の無職やひきこもり状態の子どもと同居し、経済的な困窮や社会的孤立に至る世帯が増えている。高齢の親にとっては、認知症・病気・1人暮らし・子どもからの暴力などの問題があり、壮年期の子どもにとっては、ひきこもり・就職難(就職氷河期にもあたっていた)・非正規雇用・未婚の増加も要因としてある。加えて、外からの支援を拒否する傾向が親にも子にもある。このような「高齢の親と子どもの同居」は、まさに共倒れする「限界家族」の臨界点にやがて達する。深刻である。
2019年3月、内閣府の調査によれば、40歳から64歳までの"ひきこもり状態"にある人は全国で61.3万人に及び、うち男性が76.6%という。しかも今、ひきこもりの長期化・高齢化の時代を迎えている。本書は「ひきこもり支援の糸口」を具体例で示している。「短期解決を焦る両親に窓口が助言」「段階的な支援の仕組み――居場所型支援、就労支援、医療での支援」などだ。中高年のひきこもり問題は、これまでの子ども・若者支援の課題がもち越された部分も大きいので、若年からの息の長い支援が不可欠だ。また、誰とも話をしないひきこもり状態の人に、"断絶""孤立"を乗り越えて"接点""関係"をつくることが支援にはまず重要となる。
「他人に迷惑をかけたくない」「生活保護を受けるくらいなら死ぬ」――迷惑をかけて生きていくのか、死ぬのかという極端な二者択一の前に立ちすくんでいるひきこもりは、その解消という目標から離れて、日常の困りごとや要求を拾い上げたり、猫の世話やゴミ出しなどでよい、接点をつくり、不安を減らしていくことだ、という。公的な支援組織やNPOによる伴走型支援の大切さだ。そして、就労支援も本書にある「料理が得意だという情報から"支え合い料理会"などの場で"役立ち感"を感じてもらうということを経て、初めて居酒屋に勤める」など、丁寧な対応が大切だ、という。
8050問題には、「子離れ・親離れのタイミングはいつなのか」という問題がある。かつては、成人すると家を出た。また結婚年齢も低かった。それが現在は「成人後も親子関係が長く続く時代」となり、寿命も大きく延びた。そして経済、社会の変化、各個人での"つまずき"も多い。どうやって長期の親子関係を乗り切っていくのか、という未知との遭遇だ。
「一般社会から離脱した人を支える仕組み」「若者自身が自由と責任を引き受けていける社会の仕組み」「親子それぞれが新しい生活を実現できる支援の仕組み」への挑戦。「戦後型家族観」を越え、「親子共依存(過剰な)」を越える依存先を増やす挑戦だ。閉ざされた家族内の人間関係に"新しい風"を吹き込むという大きな課題に直面している。
「蜜蜂と遠雷」のスピンオフ短編小説集の6話。養蜂家の父をもち、ピアノも持たず破天荒な演奏で衝撃を与える異能の少年・風間塵、天才少女で母の死とともにピアノが弾けなくなってしまった栄伝亜夜、名門ジュリアード音楽院の俊英・マサル・C・レヴィ・アナトールら芳ヶ江国際ピアノコンクールで競った若者たちの周辺で何が起きていたか。背景にある師匠らの人間模様が描かれ面白い。一期一会というが、人生は不思議な縁によって彩りを獲得するものだ。
マサルと亜夜に風間塵が加わり、恩師・綿貫先生の墓参りをする「祝祭と掃苔」に始まる。「獅子と芍薬」では、芳ヶ江国際ピアノコンクールの審査員・ナサニエル・シルヴァーバーグと嵯峨三枝子の若き頃、30年前のドラマチックな出会い。作曲家・菱沼忠明が、課題曲「春と修羅」を作るきっかけとなった早逝した小山内健次。「そもそも音ってのは、楽譜で弾ける平均律に収まるような代物じゃない。・・・・・・音楽を記譜に寄せるのはそこそこにしとけ。記譜のほうを音楽に寄せるんだ。音楽を譲るな」という「袈裟と鞦韆」。マサルとナサニエルの師弟の絆と戦略を描いた「竪琴と葦笛」。
「鈴蘭と階段」――ヴィオラを求める栄伝亜夜の友人・奏。楽器との相性があり「知らず知らずのうちに、ヴィオラの世界を、イメージを、可能性を、ステレオタイプに限定していたのではないか。あたしはヴィオラの豊かさと包容力をみくびっていた」と奥深い世界を描く。「伝説と予感」――風間塵のピアノに、巨匠・ユウジ・フォン・ホフマンが受けた恐怖にも似た衝撃と戦慄。
「1973-74年に、『マルクスその可能性の中心』と『柳田国男試論』を書いた。いずれも文芸評論の延長として書いたものだが、それらの違いは大きかった」「『世界史の構造』(2010年)を書き終えたあと、私は急に、柳田国男について考えはじめたのである。それは一つには、2011年に東北大震災があったからだ。だが別の視点からみれば、私の中で『文学』と『日本』が回帰してきたということかもしれない」という。明治8年に生まれ昭和37年に亡くなった柳田国男は民俗学者・官僚。「日本人とは何か」を近代日本の黎明期から激動の時代を生き、調査・研究を続け求め続けたがゆえに、「柳田にとって『神国日本』とは、世界人類史の痕跡を留める『歴史の実験』場だった」「日本は世界史の『実験』にとって恵まれた場所だ、と柳田は考えた」・・・・・・。
世界の文明・宗教・思想を凝縮して掴み、柳田国男の人類史のベースとなった「実験の史学」を浮かび上がらせる。カントの「永遠平和のために」「国際連盟」とマルクスの「ドイツ・イデオロギー」「ロシア革命」の近接と「1928年の不戦条約」「大正デモクラシー」「憲法9条」――それらが1921年に新渡戸稲造に誘われてジュネーブの国際連盟委任統治委員に就任した柳田に投影されるのだ。その「歴史の実験」が1930年代に消滅し、柳田は1935年に「実験の史学」を書いた後、沈黙する。
「実験の文学批評」として、島崎藤村と柳田国男の思想と確執、本居宣長の古道と平田篤胤の平田神道・本地垂迹、本居・平田を超えた柳田の「祖霊」が止まる「神国日本」の「新国学」等々が、研ぎ澄まされるように詳述される。第2部の「山人から見る世界史」では、デカルト、レヴィ・ストロースから「柳田のコギト」を示しつつ、関西弁で「思うわ、ゆえに、あるわ」と語ったりする。柳田はナショナリズムとは対極の「一国民俗学」を唱え、「山人」に固執する。「狩猟民、遊牧民、漁撈民の遊動性と商人」「原無縁と原遊動性、原父と原遊動性、武士と遊牧民、インドの山地民と武士、海上の道と鈴木姓や信州の文明、山人の動物学とオオカミ(山人は遊動的狩猟採集民で狼と一緒に狩猟した)」等が語られ、「山人の宗教学―固有信仰」「御霊と氏神」「双系制と養子制」「歴史意識の古層」などが解説され、抜群に面白い。
本能寺の変の後の天正11年(1583年)4月、羽柴秀吉が柴田勝家と雌雄を決した賤ヶ岳の戦い。華々しい活躍をした秀吉の小姓衆の殊勲者7人は、「賤ヶ岳7本槍」と呼ばれるようになった。名を轟かせたこの7人――加藤虎之助、志村(糟屋)助右衛門、福島市松、脇坂甚内、平野権平、片桐助作、加藤孫六。それぞれが夢見た大名へと出世していくが、もう一人、同年代の小姓衆の仲間に、桁違いの知力をもち、秀吉の信を得た男がいた。石田佐吉である。朝鮮への出兵の後、秀吉は1598年に没し、1600年の関ケ原。賤ヶ岳7本槍は東軍・西軍にそれぞれ分かれて戦い、石田三成、糟屋助右衛門は散る。しかし、この7人の胸中には「豊臣家」があり、「厳しいことも言い争うことができた8人の仲間」があり、とりわけ「佐吉の言っていたことの深さと情、眩しいほどの生き方を曲げない姿勢」が心の芯にあったのだった。抜群に面白い気鋭の作品。こんな三成なら魅力的で好きになる。凄みもある。
「家康は佐吉のことを無謀な戦に挑んで敗れた愚将だと流布している。佐吉は己に汚名を雪ぐ機会をくれた。今度は己がこれをもって佐吉の名誉を取り戻すつもりでいる。・・・・・・治部は恐ろしい男であったと覚えておこう(「権平は笑っているか」の章)」「家康は隙あらば天下を簒奪しようとする。『俺たちが付いて負ければ、豊臣家は真に滅びる』。虎之助に限らず、豊臣家を守らんとする者の大半の意見が『内府家康亡き後ならば、徳川を封じ込められる』であった。・・・・・・殿下は四杯目を所望した。困り果てた佐吉は遂にどのようにすればよいか、殿下に直接尋ねたという。困った時はつまらない誇りを捨て、真摯に尋ねることが出来るか。人の身になって物事を考えられるか。殿下はそれを試されたのだろうと佐吉は取っていたらしい(槍を捜す市松)」「当初は勝手に戦を起こし、結果的に豊臣家の力を削ることになったと佐吉を憎んでいた。しかし、佐吉のいうように、あの時しか家康を排除する機会はなかったかも知れない。さらに佐吉は負けた時のことも考え、一計を打っていた」「佐吉は皆が羨むほどの権を握ったが一点の清らかさだけは失わなかったらしい。それは佐吉が心の中に、いつも原点に立ち返る『家』を持っていたからではないか(槍を捜す市松)」・・・・・・。他の「虎之助は何を見る」「腰抜け助右衛門」「惚れてこそ甚内」「助作は夢を見ぬ」「蟻の中の孫六」の各章。いずれも自らと佐吉の心中を語らせている。