時は幕末。貧しい養蚕農家に生まれたお糸は手を抜かずに突き進む女性。数えで十歳のお糸は、歌川貞秀という旅絵師と、中村善右衛門という蚕種商に出会い、今までとは全く異なるものが世にあるのだと知る。ある時、医者が体温計を使って熱を計ることを知り、「体温計をお蚕飼いに使えないか」と思いつく。江戸に飛び出して、善右衛門と共に周りの助けを得て、苦労しながらも養蚕が量産し易いように、寒暖計を養蚕業用の蚕当計に作り上げていく。
しかし、これはお糸の「寒暖計」「蚕当計」の成功物語ではない。江戸時代、しかも因習深き地方において、志をもって生き抜こうとした一人の女性の物語だ。江戸に何度も飛び出す。しかも親や自分の娘を村に置いて。「蚕当計」は作り上げたものの、少しも広まらないし、彼女自身への蔑みは繰り返される。とくに娘からの反発は凄まじい。しかし、何度も何度も体当たりで挑み、ついに「蚕当計」も村からの「信頼」も勝ち取る。何といっても娘と親子の会話ができるようになる。
私は、女性は男性よりも真剣で、一途で突っ込んで結果を出すと思っている。子供に対する愛情も深いし、仕事についてもやり切る力は凄い。お糸は決して良妻賢母でも、肝っ玉母さんでもない。"困った人"といえるかもしれないが、周囲とぶつかり、葛藤しながらも突き進む女性の姿が、黒船が浦賀沖に来る日本近代の黎明期を背景に見事に描かれる。
「令和」制定の経緯を日テレ政治部がまとめたもの。「平成31年4月1日の発表の日のドキュメント」、さかのぼって「NHKのスクープ『生前退位』の衝撃と『恒久法か特例法か』の議論」、「官邸の動きと保守派の考え」「最終候補選定までの道のり」「考案者と国書」等々が、生々しく語られる。「極秘」で進められるものだけに、「取材される側」「取材する側」の緊張感が伝わってくる。さまざまな攻防はあるにしろ、「令和」がスタートを切った。
本書はまた「元号と政治」の章で結ばれている。「始まりとなった水戸学」「光圀以来の"敬幕"の論理が、尊皇論が純化されることによって討幕論につながった」「明治より『一世一元』となったこと」「天皇親政と元号の結び付き」「敗戦によって天皇による"時間支配"の物語はピリオドを打つ」「法的根拠の喪失と元号廃止論の浮上」「保守勢力の"草の根"運動と元号法の成立(1979年6月)」・・・・・・。「権威と権力」「象徴天皇」「皇位継承」「内閣等による皇室の政治利用」など、国と社会の諸課題は考え続けなければならないことだ。
面白い。殺人事件だが悪人はいない。運命に操られる家族。夫婦・親子の愛、思いが心に迫る。これも加賀恭一郎シリーズといえようが、主人公は加賀の従弟で刑事の松宮脩平。殺人事件をきっかけに、複数の家族の秘密があぶり出され、「人には家族にも言えないことがある」「言うべきか、言わざるべきか」が交錯する。"心の扉"という琴線に触れる作品。
目黒にあるカフェ「弥生茶屋」の経営者・花塚弥生が背中をナイフで刺され、店で殺害される。「あんないい人はいない」と誰もがいった。恨みを買うようなこともないように思われたが、捜査線上に二人の人物が浮かぶ。一人は綿貫哲彦、弥生の元夫。もう一人は汐見行伸、店の常連客で弥生に好意を寄せていたと思われた。捜査が進むと綿貫の家族(同棲する中屋多由子)、汐見の家族(妻・玲子が亡くなり、14歳の娘・萌奈と二人暮らし)がともに深い闇をかかえていることを知る。どうも証言がおかしい。秘密を抱え真実を心の内に隠しているとしか思えない。この二つの家族とともに、捜査を担当する松宮自身に、生まれてすぐに亡くなったとされる父親と名乗る者が現われ絡み合う。この家族にも人に明かせぬ秘密が隠されていた。
「あたしは、誰かの代わりに生まれてきたんじゃない」「そういえば、と克子が続けた。この糸は離さないっていっていたな。たとえ会えなくても、自分にとって大切な人間と見えない糸で繋がっていると思えたら、それだけで幸せだって。その糸がどんなに長くても希望をもてるって。だから死ぬまで、その糸は離さない」「素敵な巡り合いがあると思う(子どもができ)」・・・・・・。
殺人事件自体は解決するが、松宮は「解くべきは各家族に潜む親子の謎の糸だ」と奔走、苦悩する。家族の絆、親子の絆、血と育ての絆、運命をとことん感じさせる。
明治6年、征韓論で政府が分裂。明治10年、西南戦争で西郷隆盛が死ぬが、陸奥宗光は政府転覆計画に連座したとして、国事犯として5年の禁獄に処せられた。西郷、大久保が相次いで亡くなった後の明治10年代から日清戦争までの間、陸奥宗光は欧米列強と闘い、「不平等条約の改正」に命を懸けた。その心中は「明治になって初めて日本人は生まれたと陸奥は思っていた。それまではそれぞれの藩に住む者の集まりが日本人であったが、いまや誰もが日本人として平等であり、国家に対して、『義務あり、権利あり』と陸奥は主張している。......明治政府は、藩閥政府になりはてている。日本は日本人の日本である。薩長の日本ではない」と声を高くして言いたかったのだ。それは「日本を洗濯したく候、と唱えた坂本龍馬の理想とするところでもあった」と描かれる。
葉室麟の未完の遺稿。「作者は挫折や失敗を味わった人物を好んで主人公にする。ひとは生きていくことで、挫折や失敗の苦渋を味わう。そうなると、歴史を見つめてももはや『勝者』の視点は持ち得ないと作者(葉室麟)はいう」と解説の細谷正充さんは言っている。味わい深く、力むことのない葉室麟の逝去は残念だ。
「陸奥は剃刀と仇名されるほど鋭い頭脳をもっている」「紀州の出である」「藩閥政府を厳しく批判した」「伊藤博文に可愛がられ信頼された」「美しい女性・亮子を妻とした」「亮子は鹿鳴館の華と呼ばれたが夫婦とも鹿鳴館には違和感を持っていた」「機略縦横・坂本龍馬に魅かれ兄事していた(外交の才)」......。日清戦争をなぜ遂行したか。不平等条約を改正するためと苦悩する陸奥宗光。それに対する勝海舟の反対は、キレ味抜群。本書に特別収録された「乙女がゆく」も、龍馬とその姉・乙女の関係が活写され、とびきり良い。
「加齢で得るもの、失うもの」が副題。増本さんは、認知症や記憶障害、加齢と記憶に関する研究、高齢者心理学・認知心理学の専門家。高齢期はさまざまな喪失の期間、しかも寿命と健康寿命の差は約10年、どうこの10年間を悔いなく過ごすかが人生にとってきわめて重要。確かに加齢によって記憶は衰えるが、そのメカニズムはもっと複雑だ。
「加齢によって脳全体に均質に変化がみられるわけではない。前頭前野の体積が加齢とともに最も萎縮し、次いで海馬を含む側頭葉、頭頂葉、後頭葉の順に萎縮がみられる」「経験した記憶、思い出はエピソード記憶と呼ばれるが、10代から20代にかけて経験した出来事を多く思い出す(5年以内のエピソード記憶は加齢によって低下する)」「記憶は、経験を情報として頭に入力(符号化)、それを保持(貯蔵)、必要な情報を思い出す(検索)、の3つのプロセスを経るが、加齢による萎縮が顕著な前頭前野が、符号化と検索を担っている」「鍵やメガネを置いた場所を忘れるのは符号化、名前が出てこないのは検索の問題」「思い出せない部分はストーリーで補う。経験した事実と異なる記憶(虚偽記憶)が高齢期には増加する」「知識の記憶は意味記憶という。知恵にも通ずる意味記憶は加齢による低下がみられない。知識は知恵の基盤となる(一を聞いて十を知る)」「興味は記憶を促進する。感情は扁桃体が働くことで喚起される」――。記憶の持つ意味と構造が解説される。
そして認知症。なるかならないのか、どうコントロールできるのか。修正可能な認知症リスクが示される。「若年期の教育が認知の予備力を獲得する(低い教育レベルだと8%のリスク)」「中年期の難聴(9%)、高血圧(2%)、肥満(1%)で12%のリスク」「高齢期の喫煙(5%)、うつ(4%)、運動不足(3%)、社会との接触の低さ(2%)、糖尿病(1%)で15%のリスク」という。そして個人で修正できない要因が65%ということは、「認知症の予防だけでなく、認知症になってもQOL(生活の質)をどうすれば維持でき、介護の問題を克服できるか、社会全体で考える必要がある」という。
そして「幸福感を得るための脳機能は衰えにくい」「ポジティビティ・エフェクト」「感情のコントロールは人生をかけて上達する」「老いを受容し、年老いても成長し続けるためのやる気と努力」等を示す。