「されどわれらが日々――」(1964年第51回芥川賞)は、我々世代にとって忘れられない青春時代の著作。それから50年余、柴田翔氏にとって30年ぶりの注目の長編だ。主人公の加見直行は、少年期に終戦を迎え、激動の戦後をひたすら生き、安保闘争等の過激革命家に声をかけられ南米で数年を過ごし、政治闘争のなかで帰国。結婚、多くの人との出会い、妻の死、そして70代となって人生の総括のなかで、過去が蘇る。
人は激動する時代のなかで生きる。人生はいろいろな出来事に遭遇する。さまざまな出会いがある。因があり縁があり果がある。衝撃の事件も絶望もある。しかし、70代を越え、身辺の整理を始めてみると、それらがある折り合いをみせて静かに定置する。人生に真摯に立ち向かった人に築かれる境地だろう。その境地は、生老病死の生命観と宇宙観に通じる。宇宙から、死者から届く信号に気づくのだ。「文化も歴史も、死者たちと生者たちの思いの感応がなければ生まれない・・・・・・。永遠無量の時空の片隅の片隅で、死者と生者の思いが重なって、そこから初めて文化や歴史が生まれてくる」「人間の歴史も、先行した死者たちとそれを慕う生者たちとの信号のやりとりから生まれてくる」・・・・・・。加見直行の生涯は、同時代を生きてきた我々自身の人生を思い考えるとともに、「人生とは」という命題を考えさせてくれる。
いずれも貧しい武家、言葉少なに息の詰まるような生活と人間関係。江戸時代の武家の貧しさと心の中の寂寥感は、現在のような自由な言語空間がないゆえに迫りくるものがある。そのなかで我慢を強いられて生きる女性の心象風景がもの悲しく響く。危ない女、芯強き女、清楚な女。
三篇とも、人は心の中に引っかかる何かを抜けないまま生きるものだということを思わせる。「遠縁の女」は、5年の武者修行から帰国した男を待っていた衝撃の事実と女の仕掛け。「機織る武家」は血の繋がらない3人が暮らす貧しい武家で、後妻が機織りを始める。「沼尻新田」は、新田開発を持ちかけられた当主の当惑と喜び。
保活――。妊娠中から保育所に入れるかどうかに一喜一憂、「保育所に入れるか」「働き続けられるか」という不安を抱えて、書類を整え、見学をし、併願で労力は数倍となる。ゼロ歳から入らないと、育児休業後の見通しが立たない。認可保育所(213万人)、小規模保育や事業所内保育などの地域型保育、そして東京都の認証保育所など認可外保育事業(約20万人)。また幼稚園(134万人)、認定子ども園(32万人)・・・・・・。保育所はかなりふえているが、0~2歳児は待機児童も多く、とくに0歳児保育で保育士不足が深刻化する。副題に「待機児童、保育士不足、建設反対運動」とあるように、問題は複合し、入り組んでいる。
少子化が進展するなかで、保育所は親が働くのを支えるだけではなく、子どもの健やかな育ちを支える場所である。孤独な母親、子育ての不安感が増すなかで、保育所は子育て支援の大事な拠点でもある。保育所の充実・強化策は緊要だが、大人全体の働き方改革自体が重要となる。働きながら子どもを産み育てることが可能となる社会――本書は横浜市副市長としての経験も踏まえ、専門的見地から問題を解き明かしてくれる。そして「待機児童解消へ、8つの提言」をしている。
ここ3年の6つの短篇集だが、いずれもテーマ、中身、心象の変化ときわめて深く心に浸み入る。
「出会いなおし」――。自分自身への自信を損なって、プロになりきれない苛立ちを募らせていた若き女性イラストレーター・佐和田。向上心は強い。そこに出版のパートナーとなるナリキヨさんが、人生の節目に現われる。出会い、別れ、再会、別れ、――。
年をとること、それは「同じ相手に何回も出会い直すということだ。会うたびに知らない顔を見せ、人は立体的になる」――。それが人生の面白いところ。
一転して「カブとセロリの塩昆布サラダ」――。働く女性主婦・清美が、デパ地下で買ったサラダ。何とそのカブがダイコンであったことのクレームと店員の反応、主人の反応・・・・・・。姿が鮮やかに浮かぶ。
「ママ」――。夫の嘘に家を飛び出した妻。悲しみには二つのタイプがある。「重たいかなしみは、じきになれる。やっかいなのは、からっぽのほう。・・・・・・こじらすとよくないことになる」。きわめて印象的な作品。
「むすびめ」――。小学6年で30人31脚で失敗した女性が、15年もトラウマをかかえて同窓会に出る。そこで知った真実・・・・・・。ミステリーのドンデン返しのような結末だが、もっと心に余韻が響く。
「テールライト」――。切迫感ある4つの話。「どうか、どうか、どうか――」。願いで締めくくられる。
「青空」――。朝、目覚めてすぐに思うこと。亡くなった妻が、親子を守る。
6つの短篇、全く異なる自在なる作風に驚き、感動する。
