「にんげん蚤の市」(清流出版)、「にんげん住所録」(文藝春秋)、「わたしの渡世日記」(文春文庫)を読んだ。無類の読書家、エッセイストとして名高い高峰さん。どれも面白い。一流の人物、一流の世界との交流が、率直に素のまま、こんなこといってしまっていいのかと思う部分もあるほど平気で語られる。興味本位とは全く対極。出てくる人が全てが素顔。"虚像"ともいわれがちな芸能界のなかで、普通でいられる、私は私でいられる強さをもっているから人も素顔で接したのだろう。きわめて奥深い人間の世界の素晴らしさをみせてくれ、心持よい。
「ええカッコシイはやめて、私の恥のありったけをブチまけようと覚悟。思い出すまま、筆の走るままに書き散らした」というが、「私の歩んできた渡世の道は、もっと恥多く、貧しく、そしてみじめだった」という心の沈潜が、それが踏むべき大地となって、自己肯定、いつも肩ひじはらない精一杯さ、前向き、好奇心、温かさ、仕方がないよやることはやらなきゃ――という高峰さんの人格をつくったのだろうか。
人に尽くせば、人に恵まれるよ――人に恵まれるというのは人生で最高なことだと思う。
昨年の2月末、この本を読もうと思った時に、東日本大震災が起きた。問題は今も変わらない。
自壊社会とは、社会の成り立ちそのものに起因する持続困難を抱え込んでいる社会になっていることだ。先行きの見えない不安と閉塞感が広がっているのに「次の社会」が描けない。「雇用・経済」「社会保障・教育」「自然環境」――3つが相反するとして政策を進めたらますます行き詰まることは必至。
持続可能な社会へのこれら制度連携を「生きるということを共にする社会(生き共にする社会)」の理念のもとに「もう一つの日本への構想」としてまとめ上げよ、という。神野、宮本両氏が軸となり、水野和夫、植田和弘さん等7人が論陣をはる。各論は短すぎるが、それゆえに主張の核心はよくわかる。付加されているブックガイドはそれを補っているものと思う。
水滸伝、楊令伝に続いて、いよいよ岳飛伝が始まる。中国随一と讃えられる英雄・岳飛だが、まだこの第一章はその序章にすぎない。掲げる「盡忠報国」――民に忠義を盡し、天に報いる。
それについて負傷した若き延圭がズバッと語る。「戦は、お題目でやるもんじゃない。お題目は人が集まってくるためにあるが、戦は、武器と指揮官の命令でやるもんだと思っています。そして大将が、俺たちをどこかへ連れていってくれるってね。・・・・・・大将が生きているから戦をやり続けられるんだって思いす。・・・・・・梁山泊軍は、だからすげえと、俺は思うんです。大将が死んだのに、戦ができる」と。
その梁山泊は大洪水に襲われ、生命線ともいうべき物流が途絶え、追い討ちをかけるように頭領楊令を失っていた。動きがとれない。息をひそめる梁山泊。楊令に代わる核となる中心人物がいない。いつも当たり前だと思われていた号令も出ない。「いつから俺たちはこんな事になってしまったのか」――嘆きがあふれる。しかし、大将を失った今の空白のなかにも、現場の各部隊の鍛えられた強さとまとまりはくずれない。金や南宋が感じるのは、そうした驚くべき梁山泊の強さだ。
「替天行道」――梁山泊の志。志と核となる人。法と人。何をもって率いるか。悠大なスケールで北方謙三氏の岳飛伝が始まった。
