大田南畝(寛延2年~文政6年) (1749〜1823)の生涯。「まいまいつぶろ」「またうど」「御庭番耳目抄」など、第9代将軍徳川家重、第10代家治、大岡忠光、田沼意次らを描いた著者が、文筆の才で江戸の名声をほしいままにした狂歌師であり、御家人の大田直次郎(南畝、蜀山人)を描く。一連の著者の著作、昨年のNHK大河ドラマ「蔦重」や沢木耕太郎「暦のしずく」の馬場文耕など、庶民文化の開花とその窒息が露わになった時代――。特に天明期(1781〜1789)には、浅間山大噴火、天明の大飢饉、田沼意次の失脚(1786)、松平定信の緊縮財政・風紀取締まりの「寛政の改革」が始まった。大田南畝はこれを機に狂歌の筆を擱き、幕吏としての職務に励み、随筆などを執筆するようになった。本書の帯に「守るべきは文化か、家族か」とあるが、そこには、家を守り継承しようとする家族愛があった。
平賀源内から高い評価を受けた大田直次郎。その才は冴え渡り、平賀源内、平秩東作、唐衣橘洲、元木網(もとのもくあみ)、朱楽菅江(あけらかんこう)、蔦屋重三郎、塙保己一、恋川春町、秋田藩の朋誠堂喜三ニらと深い交友関係を結ぶ。「享保の御改革で、書も学問も好きに許されるようになって幸いじゃ。御徒など書でも読まねばやっておられぬ」「大らかな世でございますな」「幕臣であろうと狂歌に関わることが許されており、そこには、侍も商人もない」「狂歌はよろしゅうござるな。笑いというものは、その場の憂さを救う」「正統の和歌に対し、貧しさに我が身をこと寄せて笑い飛ばすのが狂歌だ」・・・・・・。
ところが、天明5年に田沼意知が殺害され、その後、文物の花を咲かせた田沼意次が失脚、続いて10代家治が亡くなる。「上から押さえつけてくるような世に、目を瞠るほどの狂歌が詠まれるはずはない」「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶというて夜も寝られず」「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」・・・・・・。
「誰がここまでになった狂歌を、このまま御上の命で終わりになどさせたいものか」と直次郎は思うが、他の誰とも違う事情が直次郎にはあった。「あの定吉に御徒の御役を全うさせ、食うに困らぬ道を保っておかねばならない」「私は政事向きの歌は作りません。・・・・・・狂歌というのはね、蔦重さん、もうしっかりと出来上がった、遥かな高みにあるものを私らの暮らしへ引き下ろして、その落差を笑い飛ばして、皆で明るく生きるためのものなんだ。・・・・・・月がそうでしょう。澄ましやがってと私らが毒づいたところで、月は眉一つ動かさぬ。狂歌は、そんな相手だからこそ向かっていくんですよ」・・・・・・。戯作者、狂歌師、蔦重らは次々と弾圧され、死んだり、江戸払いとなる。そして「狂歌も狂文も書けぬ世に、直次郎は立身を目指す幕吏になった」のだった。
しかし、松平定信の治世もわずか8年で終わる。直次郎は南向きの田の南畝。そして大阪へ、また長崎へと赴任。狂歌を捨てて幕吏と生きるが、「私は狂歌も狂詩も狂文も好きで好きでたまらぬのです」として蜀山人(銅の異名の蜀山居士から)と名乗る。江戸に帰り、家族とともに75歳まで生きた。「雀どのお宿はどこか知らねども、ちょっちょと御座れ酒の相手に」・・・・・・。
狂歌の才は溢れるほどだが、変わりゆく時代を生きる人間の軸が定まっている姿が伝わってくる。
