「いま戦争を語らなきゃいけない」が副題。著者の「平和国家として歩んだ約80年間の政治の変容と世界における日本の現在地」の論考、保阪正康さんとの対談、「復刻 57人の戦争証言」の三部作よりなる。現在のロシアのウクライナ侵略、ガザでの戦闘を見ても、これまでの枠組みを覆す戦火が続き、北東アジアの安全保障環境の悪化と日本の抑止力強化への動きが顕著になっている。「戦争ほど残酷なものはない、戦争ほど悲惨なものはない」――そうした叫びが、憲法や非核三原則など強固な骨格を形成してきたが、昨今はそうした思考の骨格もなく、リアリズムの名のもとに軽く扱われることが危惧される。昭和100年、戦後80年、何が形骸化をもたらしているのか、日本の現在地とその思想はいかなる変化の中にあるのか。それを問いかける論考・対談・証言だ。
その意味では、保阪正康さんへのロングインタビュー「太平洋戦争への道程と非戦のための記憶の継承」は歴史を俯瞰して端的、急所を語る。「暴力を恐れた明治政府」「5つの国家像を模索した岩倉使節団。薩長の幕藩体制支配とそれを批判する自由主軸の土佐」「軍事主体となった背景(不平士族や自由民権運動を軍事で鎮圧)」「山縣の主権線と利益線で外へ」「政府と議会の関係が変わった。協力して富国・強兵」「賠償金を原資に軍備拡張、戦争がビジネスに。日清・日露・第一次世界大戦でも」・・・・・・。戦争と軍備が歴史経過を追って語られる。
そして、「戦争と皇室」が語られる。「明治政府による天皇の神格化」「戦争回避を願う天皇」「個人と天皇の一体化」「天皇の戦争責任」・・・・・・。「責任はあるに決まっている」が、「天皇は責任を取る立場ではありませんでした」と言う。
「敗戦のあの時に国民が誓った『もう戦争はしない。戦争はこりごりだ』という意識に亀裂が入っているように感じます(前田)」との問いに、保阪さんは、「前尾繁三郎は『保守は1日1日、革新することをいうのだ。1年先や2年先のことを暴力的にやるのではない』」「福田赳夫さんも非戦の人でした」「護憲だった後藤田正晴さん。二度とああいう帝国主義的な戦争をしない、内閣を暴走させないということを身にしみて思っている世代」。「やっぱり自民党がバランスを働かせていたと思います」と言っている。野中さんも古賀さんも・・・・・・。
「二度と戦争をしないために」----。「軍事で失ったものを軍事で取り返す。軍事的復讐。これは戦間期で醸成される思想」が歴史的に行われてきたが、日本は戦後、「戦間期の思想を、憲法も歴史教育も、日常の生活でも消し切っている。それは誇ってよい歴史だと思う」と言う。「日本は江戸時代の260年で外国と1回も戦争をしなかった。明治から昭和までの77年間はひどいことをやったが、その後は戦争していない。----単に被爆国だということを叫ぶことではなく、それを教訓化したときに、どういう哲学や思想を生み出したのか。それが世界的に通用するのか。まだそれを生み出すことはできていませんね」「80年間の非戦を財産にする使命。この強みを思想化していくこと、あるいは生活の中に持ち込んでいくこと、何かの先駆的な意味を持ってここから何か生み出すこと」の重要さを示している。「民主主義の後には、いつも影絵のようにファシズムがついてくる。民主主義は手ぬるいし、手間もかかるし、鬱陶しい。早く結論を出せ、勇猛果敢に----」。これがファシズムで、「新しい戦前」の意味だと警鐘を鳴らす。そして石橋湛山、桐生悠々、特に石橋湛山。「石橋と吉田の考え方の分かれ目は、権謀術数の中で生きる政治家と、信念を通す気骨のある男との対立だったと思う」「石橋湛山の憲法9条凍結論。9条は人類の理想である。しかし今すぐこうはならない。現実に対応してやっていこう」・・・・・・。
「復刻 57人の戦争証言」――。2.26事件、日中戦争、真珠湾攻撃、本土初空襲、総力戦と資源、ガダルカナル等でほころび、学徒出陣、東京大空襲、本土決戦、敗戦・・・・・・。「いくら戦争じゃからと言ってここまでやってええもんじゃろうか。日中戦争でも被爆でも皆殺しの地獄を嫌というほど経験した。絶対に戦争を繰り返さんでくれというのは、私の心からの願いじゃ」「一命は取りとめたが、耳と鼻は焼け落ち、まぶたも口も閉じない・・・・・・。心より 笑いし日々の有りしかな 傷痍軍人の叔父は逝きたり」「1942年4月18日、ドーリットル隊による本土初空襲、1年後の4月18日、山本五十六長官密林に突っ込み戦死」・・・・・・。とても言葉にできないほどの戦争の残酷と悲惨が語られる。
「生き残ったものが戦争を知り、理解し、継承する責任があると私は思いますね」・・・・・・。この言葉のギリギリのところまで来てると思う。
