1780401882857.jpg戦後日本の保守思想を根底から問い直す。特に著者自身が長年師事した西部邁の軌跡をたどりながら、同じく衝撃的な死を遂げた三島由紀夫、江藤淳、さらには中上健次、折口信夫、井筒俊彦、北畠親房の「神皇正統記」などから保守思想の源流を解読し、近代日本の正体に迫る。

「豊かな『日本』を取り戻すとの政治的スローガンの熱狂のなか、しかしそこに露呈しているのは現在の日本の巨大な空虚である。今度の焼土はいわば精神の、霊性の灰燼である。守るべきものはそこにあるのか。保守すべき価値とは何なのか」――。「1991年のソ連崩壊は、『歴史の終わり』でも『アメリカの勝利』でもなく、フランス革命以後の『人間の自由意志こそ最高の権威である』という近代の固定観念の終焉だった」「新自由主義、グローバリズム、リベラル・デモクラシーなどの潮流へ追随する現代社会----。このような『保守』頽落、混迷と倒錯は、この近代200年の国家と社会の近代性、モダニティにあられもなく従属することで、人間と社会が本来的に保守すべき超越的な価値の在処を見失い、その理念を喪失したところに生じてきたもの。保守思想は神なき人間中心主義の近代世界において、その本質を問われることになったのである」・・・・・・

本書に名前を連ねる知識人は、明治以降の近代化=西洋の表層を受容することに抗った。大衆社会化状況における個の埋没や幼児化傾向を指摘したオルテガやホイジンガを西部邁が取り上げ、私は感銘。その「死生論」について自裁した新井将敬と語り合ったことを思い出す。「人間の過信を諫め、無謬の理性を疑う『保守』は、絶対者の存在抜きには成立し得ない。しかし、近代日本は超越的価値を蔑ろにし、進歩主義的イデオロギーに身を投じてきた」のだ。「『万世一系の天皇』といい、『わが国の悠久の歴史』といい、それは明治以降の近代化=西洋化の中での『贋の偶像』と化してしまったことは、繰り返し確認してきた通りである」と本源的に掘り下げて論述している。

「敗戦から80年。世界史的な『非常時』が再び来ている。今日、保守を自称する政治勢力が『日本』というワードを頻発させる。そこでは『日本』がひたすら水平軸(伝統)に内面化され、一切の外部(他者)性が排除される。これが轍である。真の保守はこれを批判する。保守思想は伝統を大切にするが、固着しない。それは人間理性を超える不可知の力によって、常にリフォームされコンサーブされるからである」「自裁するまでの40年に及ぶ言論の戦いは、大衆社会が惹起するあらゆる病を摘出する実践であり、そのプラグマティズムは、この国の同胞を、ファシスモ(束ねる)ための何がしかの超越的原理を探し求める熱情に支えられていた。どこに探し求めたのか、歴史の中に、伝統に、あるいは国家という共同体にか。・・・・・・矢が尽き刀が折れ、満身創痍になっても、西部邁は人間の知性と合理と良識への最後の信頼を決して手放すことはなかった。その『信』が自死という形をもたらしたのだとしても私にそのことを批判することはできない」と結んでいる。そして「20世紀後半からの『奇妙な保守ブーム』は、この国でも今その波の頂に達しているように思われる」と言う。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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