昨年1月、衝撃作「透析を止めた日」(堀川惠子著)に出会い、林新さんと堀川さんが命をかけた取り組んだ本書を買った。そして本年、川越宗一著「絢爛の法」で、大日本帝国憲法を作り、日本が立憲国家として生きる諸制度作りに命をかけた井上毅の壮絶な人生に触れた。この2つの書から導かれたこの新犬養木堂伝は圧倒的、凄まじいものであった。
犬養木堂----。強権的な藩閥政治に抗い政党政治を日本に築こうと戦い続けた男。腐敗した利権政治を唾棄し清貧を貫いた男。普通選挙を確立した男。軍備増強の波に抗し軍部と対峙し続け満州国樹立を断固阻止しようとした男。5.15事件で軍の凶弾に斃れた総理。「政界の荒野を駆け抜けた狐狼、犬養毅。その死から13年間、この国が焦土と果てるまで、政党政治が復活することは二度となかった」・・・・・・。
そして、本書はもう一人、犬養にピタッとついて、まさに物事の本質と犬養の心をよく知り、裏方に徹した「懐刀」古島一雄をもう一人の主人公として描く。「政界の野人」古島は、犬養の死以降も約20年生き抜き、戦後は「吉田茂の指南役」として重きを成した。
「時代が大きく動く時、政治家は誰もが己を試される。その流れに乗るのか、頬かむりで様子を見るのか、それとも濁流に立ち向かうのか」――。
「戦地探偵人」――。明治10年3月、犬養毅(21歳)は、西南戦争で近代日本初の従軍記者として戦場を駆け西郷隆盛を追った。
井上毅vs犬養毅。井上は、天皇を頂点とするドイツ型の立憲体制。福沢諭吉を師とする犬養はイギリス型の議員内閣制。明治14年の政変劇から憲法と議会開会をめぐり2人の激突が始まる。大権と民権だが、井上は大権の保持に固執しつつも、立憲主義的であり、議会と国民の権利を書き込むことに苦心した。辣腕の"剃刀"井上毅だ。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、23年に第一回衆議院議員選挙。犬養は改進党から故郷の岡山3区で当選。民権派の「民党」と政府寄りの「吏党」の対立が帝国議会となる。薩長藩閥は最初から政党の存在を認めていない。政府席の井上毅は舌鋒鋭い"狼"犬養に対した。
犬養を尋ねてきた新聞記者古島一雄(「日本」編集部)、そこで働くようになった正岡子規。日清戦争に突入、二人は従軍記者となる。明治29年、「この国を一等国にしてみせる」と全てを投げ打った井上毅が死ぬ。「痩せて、全身が衰弱し、一滴の血も残らないほどであった」と言う。国家のために汗血を絞り尽くした。同郷の徳富蘇峰が「血の一滴も残さなかった」と追悼文を書いた。
日清戦争、三国干渉、国粋主義の火の玉が大きくなっていく。明治29年、「松隈内閣」が破綻、天敵の自由党と進歩党が手を結び「憲政党」となるが隈板内閣も瓦解。福沢諭吉が死に、正岡子規も壮絶な死を遂げる。
本書で感じるのは、著者と井上毅や正岡子規、そして犬養木堂に共通する志を持った人の精神性みなぎる壮絶な「死に様」「生き様」である。「古島は子規を送る言葉をこうくくった。『僕らが君に学んだのは、俳句にあらず、和歌にあらず、写生文にあらず、すなわち人間はいかにして外界の困難と戦うべきかの問題である。否人間の気力なるものが、如何ほどまで事業を遂行し得るかの問題である』」・・・・・・。
山県・桂の藩閥政治に抗う犬養は孤立する。その間に犬養が支援した孫文たちは辛亥革命を成功させ、中華民国を成立させることになる。
いよいよ大正、憲政擁護運動の嵐が来る。「閥族打破、憲政擁護」――。犬養57歳、尾崎54歳。犬養は運動を率いた。「原敬はとにかく犬養の存在を煙たがった。器用に泳ぐのは原の方だ」・・・・・・。桂の策謀、西園寺と犬養の談判、「まさに犬養毅の独壇場だった」。民衆の暴動が内閣を倒し、藩閥政治の行き詰まりを示した「大正政変」だ。しかし政治は混乱した。大隈内閣での「ニ個師団増設」「対華ニ十一ヵ条要求」・・・・・・。
犬養は「普通選挙」の実現に力を入れる。「普選の代償」は大きく、結果的に犬養は引退する。
「張作霖爆殺事件」など軍靴の足音がするなか、世界経済の混乱が始まる。突如、政友会の総裁の要請を受ける。犬養74歳。浜口内閣のロンドン海軍軍縮条約会議、統帥権干犯問題の渦中。老獪な犬養はもちろん持論は軍縮だが、「政友会は図体は大きいが政策は無い。この党を政策で引きずり回す事は容易だ。しかし、政党を大きくするには無主義、無節操で、ただ党を大きくすることを考えるのがよく、政策を行おうとすれば党は小さくなる。・・・・・・党は無主義で太り、主義主張に忠実で細る(馬場恒吾『現代人物評論』)」と考える。そして持論を曲げてでも絶対勢力を抱き込む謀略と辛抱強さを持って動いた。「昭和6年8月、前年11月に銃撃を受け重体となった浜口が息を引き取る。そして翌月9月18日、関東軍の独断による満州事変が勃発。1931年をイクサ始まると読む易者がいたが、15年戦争の幕が開ける。ひたひたと迫りくる政党政治の終焉を告げる晩鐘が、重く低く鳴り響いていた」と描く。
そして犬養は昭和6年12月13日、総理となる。「見果てぬ夢がとうとう手中に入った」――。軍備増強の軍部の要求に、大蔵大臣を高橋是清にして抵い、国民党の幹部たちと交友の深い犬養は中国に密使を送る。世論は軍拡に流れ、政治家もマスコミまでも軍部に迎合した。そこに上海事変が勃発する。「満州事変を進めれば、必ずや日本は自滅する。吾輩は、たとえ内閣が短命に終わろうとも、やるだけの事はやってみる」――犬養木堂そういう男だ。たとえ死しでも己を貫く正岡子規のごとく「まもなく最後の時を迎えようとする人間の、とことん生き切ろうとする覚悟だったのではないか」と描く。政治家の孤独、そして著者2人のことをも思ってしまう。
3月12日、犬養は天皇に満州国の承認を拒否することを奏上した。そして5月1日、NHKラジオで、「内憂外患の対策」の講演演説をする。「私がいう産業立国は、皇国主義じゃない、侵略主義じゃない、これとは正反対のものである。わが大和民族は、海外に出て行っても一切の武装をせず、平和なる工人、平和なる農民、平和なる商人で・・・・・・」――。堀川さんは身が震えるような衝撃を受けた、命がけの覚悟を感じたと語っている。そして5月15日----。覚悟していたのか、悠然と対応する犬養木堂。撃たれた後も、いくつか指示を出し、「心配するなよ」と気遣う木堂。
驚愕の事実と心情を描いた重厚な突き刺さる衝撃作。
