1788675897232.jpg「免責と問責にゆれた天皇」が副題。戦後81年、皇室典範改正が焦点となり、「象徴天皇制とは何か」の深い論議が望まれた。「敗戦直後、人々は昭和天皇の戦争責任をどう論じたか」「免責と問責にゆれた天皇の思い」について文献を分析、新たな史料「昭和天皇拝謁記」(初代宮内庁長官・田島道治)も加えて明らかにする。

敗戦から講和独立までの7年間----傷あと癒えぬ人々が真摯かつ切実に問いかけた昭和天皇の責任論・退位論。その論議が高まったのを3つの時期に分ける。第一は1945年〜1947年。日本国憲法が制定され、天皇のあり方も「象徴天皇」となり、昭和天皇の戦争責任・退位が問われた時期。第二は、東京裁判結審に伴って訴追を免れた昭和天皇の戦争責任と退位が再び論じられた1948年〜1949年の時期。第三は占領が終わり講和独立が近づくなかで退位論が浮上、皇太子・明仁殿下が成年を迎えることも加わった1950年〜1952年の3つの時期だ。

第一期----。ルース・ベネディクトの日本研究(天皇と天皇制を存置することで、日本国民は言うことを聞き、占領政策もより円滑に進められる)、矢部貞治の退位論(個人と制度を切り離す、自発的退位論)、南原繁の自発的退位論(道徳的・精神的責任を取る)、近衛文麿の昭和天皇落飾計画と昭和天皇の一撃講和論、高松宮の不満と退位論(皇祖高宗に申し訳が立たない)・・・・・・。昭和天皇は、「退位でもして納める訳にはいかないだらうか」と言うが、"連合国が退位だけで納得するかはわからず、ましてやこちらから退位を言い出したならば、天皇制の存続にも波及する恐れがある"との声を受け、天皇制を守り責任を痛感しているが故に退位を思いとどまることになる。責任を取るからこその在位の考えである。

東京裁判の結審となる第二期----。マッカーサーたちは、冷戦に突入する今、昭和天皇の退位は避けるべき事態だとする。一方、南原繁、大山郁夫、横田喜三郎、石田秀人(尾崎行雄の秘書)を始め退位論がそれぞれの論調から続出。ただ1948年の読売新聞調査では、「天皇制についてどう思うか」では「あった方が良い」が90.3%、「退位についてどう思うか」では「在位された方が良い」が68.5%、「皇太子に譲る」が18.4%だったと言う。

講和独立の第3期----。新生日本の出発、明仁皇太子への期待から再び退位論が浮上。渋沢秀雄の退位論(社会生活の鉄則)、重臣・木戸幸一の退位論唯一ニシテ、最後の機会)、中曽根康弘の退位論(新生日本にふさわしい天皇)。待ったをかけたのは吉田茂、それを批判したのは、大宅壮一などの退位論。「宮中に燻る退位論」も紹介される。

「天皇には、あくまでも自分は一貫して平和論者であり、開戦は自分の意思とは異なるが、輔弼者による一致した決定であるから仕方なく裁可したのだとの思いがあった」「敗戦という未曾有の危機をもたらした自身には道徳的な責任がある。だからこそ、在位し続けることで責任をとっているのだ、というのが天皇の意識だった」「何ら責任を感じていないから天皇の位にとどまっているわけではない。むしろ何らかの責任を感じているからこそ退位せずに天皇であり続けている。そのうえ開戦に対して疑義を持っていたという自己意識をも有していた。それを世間にわかってもらえていないもどかしさが、胸の内に存在していた」と描いている。

そして講和成立の機会における「おことば」を巡るやりとりが紹介される。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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